2019年夏に私は二つの映画を見た。「ライオンキング」と「天気の子」である。どちらも大変感動的であり、神秘的であった。二つの映画には共通する話題が三つある。「シャーマン①」「運命」「集団と個人」である。そして、それらの話題は二つの映画の中で、全く逆に描かれている。

 詳しく説明しよう。まずライオンキングの登場動物に<ラフィキ>というシャーマンの猿が登場する。また「天気の子」ではヒロインの天野陽菜は天気を自在に操る<天気の巫女>として描かれる。しかし、本編でそれぞれのシャーマンは対照の行動をとる。ラフィキは冒頭で生まれたばかりの王子・シンバをプライド・ロックから全国民へ掲げる重要な役割を果たし、後半ではシンバを死んだ父・ムファサに会わせて家族の繋がりを思い出させ、ムファサからシンバが啓示を受けるきっかけを作る。ラフィキはシャーマンとしての大きな役割を全うしているのだ。逆に天野陽菜は天気の巫女として一度、「晴天と引き換えに自分自身が人柱となる」というシャーマンとしての役割を果たすが、その後、主人公・森嶋帆高と空から逃げ出す。その結果、東京は豪雨が続き東京は殆ど沈んでいるという結果のまま映画は終わる。天野陽菜はシャーマンとしての役割を果たさないのだ。ここから「原始的サバンナにおけるシャーマンの大きな役割」と「現代先進国におけるシャーマンの役割の放棄」が見えてくる。

 次に「ライオンキング」ではシンバは真の王としてスカーと対決することを拒むものの、ナラとの再会、ムファサによる啓示によって、対決を決意する。シンバは王になる運命に抗うことが出来なかった。「運命」には抗えない。ということが「ライオンキング」では描かれているのである。それに対し「天気の子」においては全段落で述べた様に巫女として人柱になるものの、のちに逃げ出す。天野陽菜は運命に抗ったのだ。つまり、「天気の子」では「運命」は抗うもの。として描かれているのだ。

 最後に「ライオンキング」の主題とも言える<サークル・オブ・ライフ>。草を食べるシマウマをライオンが食べる。そしてライオンが死ぬと土に還り、栄養となり草が生える様に<命は巡る>ということであり、「集団の中の個人」「集団のための個人」の要素が濃い。つまり個人よりも集団を重要視しているのである。一方、「天気の子」で森嶋帆高は「晴天を喜ぶ多数の他人」よりも「愛する女性」を選ぶ。そして、東京の一部は沈没し、多くの人が家を失うことになったのだ。集団より個人を重要視していることがよくわかるだろう。

 以上が「ライオンキング」と「天気の子」の共通話題の取り上げ方の違いの説明である。これらの違いは製作された<時代>、<地域>の違いによるものであろうか。しかし、<時代><地域>ともに異なる「ライオンキング」が今も日本で愛されているのは何故だろうか。                           永湖 清水

 

 

①呪術者・巫女などのこと。儀式や手段を用いてトランス状態に入り、自然界の神や霊と交信する役割を担う。ツングース語に由来する。(占い用語集)超自然的存在に憑かれ、恍惚状態において霊界とのコミニュケーションをはかり、霊格を統御し、人間や自然の状態を変えようとする働きをするもの。(ブリタニカ国際大百科事典)

 

お見苦しい文であり申し訳ありません。

            それでも最後まで拝読してくださりありがとうございます。