日露戦争

ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)
 
日本は、日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。
 
また旅順要塞に立て籠ったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満州南部で予想される決戦に挑む日本軍の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。
 
ひいおじい様は、連合艦隊 近衛師団隊長として、第1師団で旅順攻囲戦に参戦。203高地攻撃に出陣。
軍司令官は乃木希典大将
 
旅順攻防はとても長くなるので、中略 
 
旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。
 
5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木将軍は武士道精神に則り降伏したロシア将兵への帯剣を許した。
 
この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。
 
こうして旅順攻囲戦は終了した。
 
その後ひいおじい様は水戸連合艦隊司令長官を拝命
 
第一次世界大戦 

1914年(大正3年)7月28日、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発

 

 高千穂は第二艦隊に編入されたが 老朽化により、速力15ノット以上の発揮は難しかったという

 

8月27日、第二艦隊司令長官加藤定吉中将は膠州湾の封鎖を宣言する (青島攻略戦)。 「高千穂」は膠州湾租借地湾外で海上封鎖任務に従事していた。 当時の本艦は、駆逐艦に補給するための武器弾薬を搭載していた。 

 

同時刻、ドイツに所属する水雷艇は上海への脱出命令を受け、日本側の封鎖線を突破しつつあった。 10月18日午前0時15分、S90は「高千穂」(速力8から10ノット航行中)を発見して距離300mまで接近、魚雷3本を発射する。 魚雷2本が命中、補給用の魚雷が誘爆し、「高千穂」は轟沈した。 

 

大叔父様(高千穂艦長)以下271名(下士官兵・傭人合計257名)が戦死、生存者は3名。 

S90は、翌日に自沈した。その他の同盟国側艦艇も自沈などで全滅した。

 

青島周辺に展開していた海軍陸戦隊重砲隊はS90の包囲網脱出を報告していたが、この情報は生かされなかったという。 

 

この戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や装備の十分な確保により断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるものでありこの戦争で日本は満洲 - 大連 - 芝罘間運用権を譲り受けた。

 

 

高千穂爆沈の報告を受けた天皇陛下は「しつみし ふねはともあれ うたかたと きえしたけをそ あはれなりける」「いへとたのむふねはしつみていきおこる たけをの心いかにとそおもふ」の和歌を詠まれた。

 

 「高千穂」は日本海軍の軍艦の中で、敵との交戦で撃沈された最初の艦となった。