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市川・船橋戦争

慶応4年閏4月3日(明治元年・1868年5月24日)に行われた戊辰戦争における戦闘の一つである。船橋の戦いとも呼ばれる。

前将軍徳川慶喜の水戸藩預かり蟄居が決定すると、これに不満を抱く旧幕府の将士の中には江戸を脱出する者が相次いだ。
旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、4月3日に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。
最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。
死者は、新政府側20名・旧幕府側13名。

刀、弓矢のほかに、イギリス式鉄砲、大砲も使用された戦いだった。 
特に海神(船橋)の戦いは、戊辰戦争全体を通してみても最激戦区だったという。

船橋の戦いでは、放火、略奪、神仏破壊、そして、強姦が行われた。
薩摩藩島津家の分家、佐土原藩島津家による戦術で西郷隆盛の命令によって行われ、それは江戸城明け渡しを促す挑発でもあった。
佐土原藩の兵たちは村の娘を拐かし、その肉体を蹂躙、古作(現中山競馬場近く)では15,6歳の若い娘たちを輪姦したが、野原に響き渡る娘達の絶叫は誰にも届くことがなかった。
弄ばれた娘たちは女郎屋へ売り飛ばされ、娘は戦利品の一種として捉えられていた。
これは船橋・前貝塚の寺の伝承となっている。 

佐土原藩の兵たちは、逃げる撤兵隊を捕まえては斬殺し、寺院の池で刀の血を洗い流した。
池の水面は赤く染まり、最終的には船橋宿に火を放ち、町ごと焼き討ちにした。 
翌日は豪雨が降り注ぎ、それによって町の被害は最小限に留められた。

【戦闘の幕引き】 
翌日、新政府の特使が市川に入って被害状況などを確認した後、市川宿には金500両、町の中心部が悉く焼失した船橋宿には3,000両を下賜して、両地域の住民が新政府に敵意を抱かないように配慮した。
その後、新政府軍は木更津にいた福田と撒兵隊の主力を敗走させ、請西藩以外の房総諸藩は、新政府に恭順の姿勢を示したという。

また、明治7年(1874年)には千葉県令柴原和が政府の了解を得て、地元民が旧幕府軍も含めた全て戦死者の供養を行う事を許可している。
しかし、強姦された娘たちには何の賠償もなかったという。

写真は幕府軍の撒兵隊と中央に大鳥圭介

#千葉県 #船橋 #市川 #西郷どん #西郷隆盛