君の名は。/your name. | 愛すべき映画たちのメソッド☆

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映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ



※作品の内容および結末、物語の核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。





「朝、目が覚めると、なぜか泣いている。そういうことが、時々ある。見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。ただ、何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残る。ずっとなにかを、誰かを探している。そういう気持ちにとりつかれたのは、たぶんあの日から。あの日。星が降った日。それはまるで、まるで、夢の景色のように。ただひたすらに、美しい眺めだった。」




一度きりの人生の、限りある時間の中で、運命の人と出逢うことはとても難しい。

もちろん、自分の殻に閉じこもって生きているだけでは何も始まらないし、出逢いも訪れない。

誰もが笑うような馬鹿げた事にチャレンジすること、とても乗り越えれそうにない高い壁を超えること、前人未到の領域へ旅立つこと、不可能を可能にすること・・・。

それらは、とても勇気がいることである。

誰も知らない、誰も経験していない、不確定な「未来」に、時に希望を抱き、時に恐れ、そして多くの人が祈り、あるいは諦め、ただただ「運命」を受け入れるしかない場合がほとんどだろう。

そして、行動しなかった、チャレンジできなかった、勇気を持てなかった自分への後悔だけが残り、コンプレックスを抱えながら大人になっていく。

だからこそ「未来を切り開く」ことの困難さは、今まで数々の物語で描かれてきた。

誰も切り開いていない未来を、自らの手で切り開く。

そして、運命の人と出逢う。

それは「過去の自分」と「未来の自分」の両方に打ち勝つことが必須な、人生の大いなる通過儀礼なのだ・・・。





「もうこんな町いややー!、こんな人生いややー!来世は東京のイケメン男子にして下さーい!」





今は名前も顔も知らないが、未来で出逢う人の中には、将来とても大切な存在になる人がいるかもしれない。

いつか誰かに出逢う事など知るはずもない「その人」は、たった今、同じ時間に、どこか遠くの街で日常を過ごしている。

未来で出逢う事などお互い知らずに、過去に街ですれ違っているかもしれない。

既に出逢っている友達、恋人、仲間たちも、自分と出逢う前にはそれぞれ違う場所で、違う人生を歩んでいたのだろう。

しかし、数々の偶然と、小さな奇跡の連続で、人と人は巡り逢う。

私たちの日常は、そういった「奇跡」と「可能性」で溢れている。

本作は、その「可能性」を映像として見せてくれ、現実世界では知る事の無い「運命」の結びつき、そして「巡り逢い」を体験させてくれる。





「ど田舎暮らしの宮水三葉との入れ替わりは不定期で、週に二、三度、ふいに訪れる。トリガーは眠ること、原因は不明。入れ替わっていた時の記憶は、目覚めるとすぐに不鮮明になってしまう。まるで明晰な夢を見ていた直後みたいに。それでも、俺たちは確かに入れ替わっている。なによりも周囲の反応がそれを証明している。」





十代のころジブリの『天空の城ラピュタ』に心を掴まれた新海誠監督は、RADWIMPSの『ふたりごと』が好きで本作の構想を膨らませ、本作のピークをRADWIMPSの曲が流れる4箇所に置いた。

一人で作り上げた『ほしのこえ』からの『雲のむこう、約束の場所』、そして等身大の恋物語を描いた『秒速5センチメートル』などでアニメファンの認知を獲得した監督の初期作品たちは、「君と僕」という関係性が「大人や社会」といった中間を飛ばして「世界の危機」と直結している=「セカイ系」と定義されることが多かった。

前作『言の葉の庭』では男女の恋心を雨の描写にトレースし、監督特有の風景描写がより美しくなったが、そこからさらに進化した本作は「新海誠ART」の集大成ともいうべき多くの要素が詰まっていて、今までの作品では描かれなかった「日本の今」という要素もプラスされている。

セカイ系の物語の多くは、大人に頼らず物事を解決しようと主人公たちはもがき苦しみ、ありふれた「日常の描写」と、非現実的な「世界の存亡をかけた戦いの描写」が融合し、唯一無二のノスタルジック感に引き込まれる。

その世界観から一歩踏み込んだ本作では、登場人物たちが「大人や社会」に助けを求め、子供を上から目線で見下していた大人側も子供を信じようとし、そこから「お互い」が成長し、そして一歩前進して世界を救う。

そういう意味で本作『君の名は。』は、大きな震災を経験した「今」でなければありえなかった、過去の新海誠作品よりも少し大人に近付いたストーリー展開になっている。





「バスケの授業で大活躍した!?  私そういうキャラじゃないんだってば!しかも男子の前で飛んだり跳ねたりしてるですって!?  胸も腹も脚もちゃんと隠せってサヤちんに叱られたわよ!男子の視線、スカート注意、人生の基本でしょう!?」





2011年の「東日本大震災」以降、震災を免れた多くの日本人が「明日は自分たちの番かもしれない」あるいは「なぜ被災したのは自分たちじゃなかったんだろう」、そして「少しでも被害を未然に防ぐ術はなかったのだろうか」という後悔や不安な気持ちを募らせてきた。

つまり、映画を創る側も観る側も2011年を境にして「以前とは違う人間」になっていると新海誠監督は感じている。

過去の新海誠作品の多くは「届かなかった手紙」というテーマがあり、「届かないこと」への諦めを抱え、それでも生きていく、という姿を描いていた。

本作では「もしも手紙が届いたら・・・」という「悲劇・悲恋」の向こう側の、新たなる「希望の物語」=「救い」までもが描かれる。

あの震災以降、世界中で大きな事件や災害が何度も起こる度に「こうじゃなかったら良かったのに・・・」「こうすれば良かった・・・」と、いろんな人が思い、願い、そして祈ったことを踏まえ、前作『言の葉の庭』から変わってきた作風は、本作では「奇跡が起こる物語」そして「願いの物語」にしたいという監督の想いを含み大きく変化した。

現実世界でその「願い」が実際に叶ったり、叶わなかったりした中で、映画=フィクションの中だけでも願いが叶うように「希望」を込めた物語を描きたい、みんなが実際に体験した事だからこそ、絵空事ではない生の感覚として描けると思い、本作のような結末を監督は描けたそうだ。





「三葉、お前に、会いに来たんだ。ホント、大変だったよ!お前すげえ遠くにいるから。」





離島に住む少女と東京に住む少年の人生が、同じ大学を受験することで交差するという「本来は出会うはずのない男女の触れ合い」を描いた通信教育・Z会のCM『クロスロード』という作品を制作した新海誠は、そのモチーフに手応えを感じ、さらにイマジネーションを広げて『君の名は。』という物語を創造した。

小野小町の「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」という和歌を出会いのヒントにし、性格が正反対な男女を取り替えて育てる「とりかへばや物語」から「入れ替わり」というアイデアを得て、本作の世界は組み立てられている。

新海誠監督は本作で「エンターテインメントのど真ん中」を狙い、過去最多1650カット=上映時間107分の時間軸を完全に自らコントロールした。

映画を観る人の気持ちになり、できるだけ退屈させないように、先を予想させない展開とスピードをキープする一方で、ときどき映画を立ち止まらせ、観客の理解が追いつく瞬間も用意し、それらを作品のどの場面で設けるか、徹底的に考えたそうだ。

コアなファンはいるが一般的にはまだ馴染みが薄い、深夜アニメに代表される「日本アニメの尖った部分」という理由で、キャラクターデザインは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』や『心が叫びたがってるんだ。』などの田中将賀が抜擢された。

そのキャラクターを「一般に向けた作品」を手掛けてきた人が動かすことで新鮮味のある化学反応が起こることを狙い、作画監督は『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を手掛けたスタジオジブリ出身の安藤雅司が担当。

コンテ通りの芝居なのに想定したよりも何倍もエモーショナルなシーンになっていたと監督も驚いたという、クライマックスで三葉が坂道を走って転んでしまう息を呑む場面を担当したのは『人狼 JIN-ROH』や『ももへの手紙』などの監督である沖浦啓之。





「あ・・・あれを飲んだぁ!?  ばか!へんたい!そうだ!それにあんた、私の胸さわったやろ!?  四葉が見とったんやからね!・・・一回だけ?うーん・・・いや、何回でも同じや!あほ!」





RADWIMPSによる20曲以上の劇中音楽、挿入歌「前前前世」「スパークル」「夢灯籠」「なんでもないや」、その全ての楽曲が奇跡の様なタイミングで奏でられる。

ボーカルの野田洋次郎は、脚本の第一稿を受け取り劇伴や挿入歌の制作を始め、脚本の全体的なイメージを基に「前前前世」や「スパークル」といった楽曲のラフを3〜4カ月で仕上げた。

それらの楽曲があまりにも素晴らしく衝撃的だったため、監督の心を動かし「これほどの曲があるなら、ストーリーの中で音楽がイニシアチブを握る時間を作らなくてはいけない」と、それ以降ビデオコンテと楽曲は並行して作られる事になった。

前作『言の葉の庭』の米国プレミアも行われた北米最大のアニメコンベンション「Anime Expo 2016」に3年振りの参加となった新海誠監督。

そこでの本作の上映が世界初上映となった。

世界的な注目度と期待の高さから、上映会場となった「Los Angeles Convention Center hall」には開場前から長蛇の列ができ、上映前に登壇した監督は英語も交えて「3年間かけて全身全霊で作りました。4日前に完成したばかりの作品です。皆さんが世界で最初に観るお客さんです」と語った。

本編上映中は歓声をあげる観客が続出し、クライマックスでは多くの観客が感動の涙を流し、エンドロールでは3,400名もの超満員の大観衆から5分を超えるスタンディングオベーションが監督に贈られた。

上映後の観客からは「1分1秒たりとも見逃せない」「心を鷲掴みにされた」「ファーストシーンから涙が止まらなかった」・・・など絶賛の声が続出、直後のパネルディスカッションでは、感極まり涙ながらに監督に想いを伝えるファンの姿もあった。

監督は「こんなにいろんな場面で、笑ってくれて、泣いてくれて、拍手をしてくれるなんて、想像もしていなかった。何年間も待ってくれているファンがいることを実感できて感動しました」とコメントした。

その後のサイン会では、受付5時間前からサインを求めるファンが殺到、当初1時間の予定だったサイン会は急遽2時間に延長された。





「え・・・?三葉?おい、三葉?・・・言おうと思ったんだ。お前が世界のどこにいても、俺が必ず、もう一度逢いに行くって。・・・君の名前は、三葉。・・・大丈夫、覚えてる!三葉、三葉・・・。三葉、みつは、みつは。名前はみつは!君の名前は・・・!・・・・・・お前は、誰だ?・・・俺は、どうしてここに来た?あいつに・・・あいつに逢うために来た!助けるために来た!生きていて欲しかった!」





本作は、山中恒の児童文学『おれがあいつであいつがおれで』を映画化した大林宣彦監督作『転校生』を思わせる「高校生の男女が夢の中で入れ替わる」という冒頭から、筒井康隆のジュブナイルSF小説『時をかける少女』を映画化した大林宣彦監督の同名作品を思わせる「時空を超えてすれ違いながら未来を変える男女」というクライマックスに着地する。

この大林宣彦イズムに満ちたノスタルジックでファンタジックな設定と、新海誠の代名詞ともいえる実写と見紛う美しい背景描写が、奇跡的な化学反応を起こしている。

ピュアな高校生男女の儚くも小さな恋物語が、多くの命を奪いかねない大災害から人々を救う、というシビアでスケールの大きな物語と絶妙に絡みあい、ラストに近付くほどに美しい「彗星」のごとく眩しく光り輝きだしていく。

遡ること200年前、草履屋の山崎繭五郎の風呂場から火が出て「糸守」という町は丸焼けになり、宮水神社も古文書もみな焼けてしまったために、「祭の意味」も、町の歴史に刻まれた「秘密」も消えてしまう・・・。





「誰、誰。あの人は誰?大事な人。忘れちゃだめな人。忘れたくなかった人。誰、誰。きみは誰?・・・君の、名前は?・・・・・・これじゃあ、名前、分かんないよ・・・。」





人為の及ばない災害という「3.11」を経験した我々は、ある日突然世界が終わるかのような災害に襲われる可能性が常にあることを知っている。

絶望を乗り越え、生き残った者たちは再び立ち上がる。

平和を取り戻し、過去から学びながら未来に備え、悲劇の記憶は薄れていき、少しづつ歴史の中に消えていく・・・。

だがその「想い」は時空を超えて未来の人々へ受け継がれ、次の悲劇を防ぐ事になる。

日本人の価値観を大きく変えた2011年以前では決して生まれる事のなかったであろう本作は、世界で起こった数々の「悲劇」に対するレクイエムでありながら、未来を築いていく「若者たち」への力強いメッセージにもなっている。

1200年周期で地球に接近する「ティアマト彗星」が目前に迫っている。

本作の舞台である「糸守」という町は、最低でもクレーターが2個あることからも想像できるように、恐らく1200年毎に彗星が落下してくる不思議な土地で、その災害から人々を守るために宮水一族は存在してるのだろう。

女性しか生まれないのかも知れない不思議な宮水一族は、巫女の立場や、代々「数年先を生きる人間と夢を通じて交信する能力」を使い、1200年に1度の彗星の落下から町の人々を救うために時間軸のズレた未来の人間と入れ替わるような能力を持っているのかもしれない・・・。





「お前さあ、知りあう前に会いに来るなよ・・・分かるわけねえだろ。」





主人公の二人は精神的に成長し、大人=親や社会と正面から向き合い、この物語は終わる・・・。

今は名前も顔も知らないが、未来で出逢う人の中には、将来とても大切な存在になる人がいるかもしれない。

いつか誰かに出逢う事など知るはずもない「その人」は、たった今、同じ時間に、どこか遠くの街で日常を過ごしている。

未来で出逢う事などお互い知らずに、過去に街ですれ違っているかもしれない。

既に出逢っている友達、恋人、仲間たちも、自分と出逢う前にはそれぞれ違う場所で、違う人生を歩んでいたのだろう。

しかし、数々の偶然と、小さな奇跡の連続で、人と人は巡り逢う。

私たちの日常は、そういった「奇跡」と「可能性」で溢れている。

「未来を切り開く」こと、そして「運命の人と出逢う」こと、それは「過去の自分」と「未来の自分」の両方に打ち勝つことが必須な、人生の大いなる通過儀礼なのだ・・・。





「・・・君の、名前は?」