進撃の巨人/ATTACK ON TITAN/エンド・オブ・ザ・ワールド (IMAX版) | 愛すべき映画たちのメソッド☆

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映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ



「奴隷の時代を終わらせ、新しい時代を創るんだ。君の中にある英雄を裏切るな。」



実写版『進撃の巨人』は「歌舞伎」である。

『ゴジラ対ヘドラ』におけるトラウマ級「赤ちゃん」場面を筆頭に、数え切れないほど多くの映画オマージュ、大袈裟な芝居、荒唐無稽な展開、それらの特徴的なピースで構成されている本作。

本作は、現代日本における映画的ハイテクとローテクをハイブリッドした新時代の「怪獣映画」、そして、常軌を逸脱した異形で斬新な「歌舞伎」という視点で観ると、その素晴らしさがより浮かび上がってくる。

「かぶき」とは、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した言葉。

そういう異端児たちのことを「かぶき者」と呼び、その斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「歌舞伎」の語源となっている。

そして誕生した歌舞伎という文化は、その当時の社会で起きた事件や世相を、そのまま表現するのは御法度だったために「時代劇」などに上手くすり替え、世の中を皮肉った内容を変換・再構成し、今日まで受け継がれ、今も上演され続けている。

そう、『進撃の巨人』の様に。

本作のスピリットも実は歌舞伎と全く同じで、表向きは痛快な勧善懲悪のエンターテインメントだが、いろんな角度や視点で読み解くと、過去や現在に実在する世界のあらゆる「独裁的な国家」や「迫害された人々」や、それらに反発し反旗を翻すクーデターやテロリズムなど、今も多くの国々で起こっている「争いの歴史」を連想させ、それらを痛烈に批判し、そして皮肉っている物語だという事が判る。

そして、それらを巧みに「娯楽」というオブラートで包み隠して表現している。

そういう点からも実写版『進撃の巨人』は、現代の《歌舞伎》だという解釈ができる。

それを踏まえて歌舞伎という視点で観てみると、足を踏み出して力の強さを表現する《ちからあし》の様に登場する巨人たちの圧倒的な存在感を表現した物語は、神話を題材にした《神代物》の部類に入るだろう。

元々は「血管・筋肉」を誇張するために顔に赤系統の線を描いたという《隈取》という歌舞伎独特の化粧法は「浮世絵」などでよく目にするが、改めて見ると「大型巨人」のビジュアルにそっくりだ。

ちなみに、歌舞伎役者の化粧は役柄により色が異なり、赤系統の色は正義、青系統の色は敵役、茶色は鬼や妖怪などに用いられている。

本作は、「前編」という幕が《絵面》で引かれて、「後編」は《子別れ》で幕を開けるという2部構成になっている。

つまり、一幕目(前編)が終わり次の幕(後編)があくまでの間にタイムラグ《幕間(幕の内)》までもが用意されている事に気付く。

一座を構成する配役の中で、看板役者である《一枚目》のエレン、美男で人気が高い若衆役を務める《二枚目》のアルミン、面白おかしい道化の様な《三枚目》もしくは《道外方》と呼ばれる役を務めるハンジやサシャやサンナギ。

《赤姫》なのか《悪婆》なのか観客を翻弄させるミカサと、彼女に恋心を抱いていたエレンは《縁切り》的に別れ、そして再会する。

超人的な力をもった主人公がその勇猛ぶりを見せる《荒事》という、歌舞伎の特殊な演技演出も連想させる。

宙乗り、早替りなどの「意表を突いた仕掛け」や「観客を驚かせるような演出」を用いた、見せ物的要素の強い演出《外連(ケレン)》の要素も全編に盛り込まれている。

少年誌的ヒーローでもあり、歌舞伎における「子供の心」で「若さ・力強さ」を表現する演技・演出様式《荒事》的な、良い意味で大袈裟で《外連味》ある「感情的演技」を魅せるエレン役の三浦春馬は、主役としての堂々たる《千両役者》っぷりでオーバーアクションの立ち回りを楽しませてくれる。

それに対する、色男の悪人《色悪》的な雰囲気を漂わせるシキシマ役の長谷川博己の怪演も、露骨に歌舞伎的でニヤリとさせられる。

隠していた身分や本性を見せる《見顕し》で驚かせる「ある登場人物」にはとても驚かされるし、国家転覆を狙う悪人《国崩し》や、《公家悪》的な役回りの調査兵団たちの思惑も入り乱れる。

水原希子、本郷奏多、三浦貴大、桜庭ななみ、松尾諭、石原さとみ、ピエール瀧、國村隼、渡部秀、水崎綾女、武田梨奈などの名役者たちもそれぞれ脇で光っているからこそ、主人公や悪役たちの歌舞伎的「大立ち回り」がより引き立っている。

役者の身体を宙に吊り上げ空中を移動させる歌舞伎の演出手法《宙乗り》の如く、縦横無尽に飛び回る「立体機動装置」を駆使したアクションの数々も、突き抜けたカタルシスを感じるほどの躍動感に溢れている。

役者を印象付けたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられ、演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止する事を指す《見得》を思わせるキメの瞬間も多く用意されている。

歌舞伎では本来「夜」を表すために用いられていた《黒幕》という言葉の通り、前編での薄暗い夜の「巨人」の恐ろしさの数々や、後編の「舞台裏から影響力を行使して舞台を操る悪人」としての《黒幕》の堂々たる登場っぷりも見事だ。

怒涛の巨人バトルが凄まじい前編ラストの幕《大詰》と、後編ラストの「引き幕」が閉まる大団円の場(幕)の終わり《幕切れ》は、まるで「浮世絵」を切り取ったかの様に美しい。

監督の《十八番》である「特撮怪獣活劇」を、あらゆるアイデアで限界まで押し進めた特撮魂も融合され、到底文章では表現できない「古典と新発想」の化学反応が起きている。

歌舞伎の演目中、黒装束に黒頭巾を着用し、リアルタイムに舞台上で役者の介添や小道具を操作する者《黒衣》にあたる「特技監督ならびにスタッフたち」の素晴らしい陰の努力は、世界中で永遠に評価されるであろう。

演目終盤、人類の生き残りをかけた数々の死闘をくぐり抜け、ボロボロになった「役者」たちが揃い、舞台下手から客席を貫かれた舞台《花道》を通り、客席正面の《本舞台》=「壁」という大きく立ちはだかる最後の砦で繰り広げられるクライマックスの攻防。

そこで、隠していた本性を現した人物が別人に見える演出手法《ぶっ返り》の様に現れる「黒幕」は、気持ちの良い振り切り加減で「憎々しさ」を解き放つ。

そして《迫り》によって《奈落》から這い上がってきたかの様に現れる「大型巨人」は、割れんばかりの大歓声と拍手喝采が相応しい程の、まさに「神」の様な圧倒的存在感がある。

この「大型巨人」も、人物・団体・国家・災害など世の中のあらゆる存在の「メタファー」だろう。

このように、社会風刺と深刻な「驚異」が込められた至極上質な演目である本作は、 「芝居通をも感心させる」という意味の歌舞伎用語《大向うを唸らせる》という言葉こそが相応しい。

だからこそ高級な観客席《桟敷》の映画版と例える事ができる「IMAX」でも上映された。

本作は、若き「絵描き」によって漫画という手法で創造された『進撃の巨人』という作品に《見立て》られた、新時代の恐ろしい「怪獣映画」である。

そして、数え切れないほど多くの映画オマージュ、大袈裟な芝居、荒唐無稽な展開、それらの特徴的なピースで構成されたパズルが完成するラスト。

そこで、ついに観客は目撃する。

エンド・オブ・ザ・ワールドという名の「新たなる歌舞伎」を・・・。

本作は、エレンの「地獄巡り」というコンセプトの為に、ダンテの「神曲」をベースに構成されている。

巨人によって「地獄」に放り込まれた人類は、壁の中に「天国」を築き、エンド・オブ・ザ・ワールド=「世界の果て」にある壁で「神」との決着をつける。

そして、ついに人類は目撃する。

壁の外側に、エンド・オブ・ザ・ワールド=「世界の終末」という名の「新たなる世界」を・・・。



「もう、終わらせよう。君を待っていた。」