
「一人ぼっちか・・・俺と一緒だな。」
「親から捨てられた子供たち」の、簡単には消せない「心の闇=トラウマ」と、それを埋めるために奮闘する「自分」との戦い、父親たちによる「新たなる愛情」「いろんな形の愛情」の数々、それぞれが壮大な時代の流れの中で結びつき、切っても切れない「家族」までもが克明に描かれている長編ドラマ。
本作は「どうしようもなく不器用な父が、ただ一つ、僕を精一杯愛してくれた30年の物語。」というキャッチコピーで、2013年に日本中の涙腺を刺激したTVドラマ『とんび』と意外にも共通点が多い。
例えば「熊徹」は、内野聖陽演じる「頑固で不器用で愛に溢れる父」の様であり、「九太/蓮」は、佐藤健演じる「父親の愛情をたくさん貰い真っ直ぐ育った息子」の様だ。
ついでに「豚顔の僧侶」は、野村宏伸演じる「頑固親父の幼馴染みのお坊さん」にセリフも雰囲気も立ち位置までそっくりだ。
母親を失った息子が「母親の優しい笑顔」を胸に、不器用な父親と反発し合いながらも共に成長し、そして父親を超えていく・・・という大筋も全く同じである。
「ここにゃおまえの居場所なんかねぇ。分かったら自分から失せろ。」
本作は『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』の細田守監督による長編オリジナル作品4作目。
前作『おおかみこども~』で「母性」を描き、本作は「父性」を描いているという点で、二つの作品は表裏一体の二部作と言って良い。
『そして父になる』でも描かれた「生みの親より育ての親」「血より時間」という物語の中で少年は、『かいじゅうたちのいるところ』のように現実逃避にも似た空想世界へ迷い込み、『千と千尋の神隠し』のように「厳しい大人の社会」での経験を経て、『おおかみこども~』のように「野生=社会」で成長し「自尊心」を手に入れ、自立し、大人になる。
その過程で、父は子に何を残せるのだろうか。
恐らく、父親は子供に「強さ」と「弱さ」両方の大切さを教えるのだろう。
心の中にあるダークサイドを吐き出してしまう弱さ、それを抑える強さ、それをコントロールしながら誰かを守るという「優しさ」まで。
だから本作では、明らかにバケモノの世界よりも人間の世界の方が「生き辛く」描かれている。
「お前、俺と一緒に来るか?」
長野県上田市で『サマーウォーズ』、監督の地元である富山県で『おおかみこどもの雨と雪』と、田舎の風景を背景に「家族」の物語を作ってきた細田守監督。
今回は真逆に方向性を変え「慣れ親しんだ街の中にこそワクワクするものが潜んでいる」というコンセプトで、大都会のど真ん中「渋谷区から一歩も出ず」に、今までの作品と同じく限定された世界の中で「家族」を語りきる。
「渋谷と渋天街」の様にリンクした「人間界とバケモノ界」が世界中の「街」に存在すると想像すれば、夢は果てしなく広がる。
きっと「街」の数だけバケモノにまつわるドラマがあるはずだ。
ひょっとしたら『おおかみこども~』の父親「おおかみおとこ」も・・・と考えるだけでも楽しい。
「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。」とチャーリー・チャップリンが言ったように、家族の素晴らしさという大きなテーマの中に、例え家族がバラバラになってしまったとしても「決して悲劇ではない」という心強いメッセージを本作は与えてくれる。
そして、思い切って視野を広げてみると、広い世界の中にいろんな形で「親」はたくさん存在しているという安心感も感じる事ができる。
「誰だってみんな等しく闇を持ってる。蓮くんだって抱えてる。私だって。」
誰の心にも存在する「バケモノ」が表に出てくるか否かは、特に幼少期の「親との関係性」も大いに鍵を握る。
人それぞれの「心のバケモノ」は、コンプレックス、妬み、恨み、恐れ、自尊心などで成長する場合もある。
だが、誰もが「心」に飼っている「バケモノ」がいつ暴れ出すかは誰にもわからない。
ある大きな「精神的外傷」から次第に心にとてつもなく深い闇を宿し、外に憎悪を向けて誰かを傷つけ、人間そのものが「バケモノ」になる場合もある。
『セブン』『羊たちの沈黙』『クロニクル』『ファイト・クラブ』『寄生獣』『スター・ウォーズ』シリーズなど多くの作品で描かれてきたように、心に宿る「ダークサイド」に飲み込まれないようにしながら、ルークとダース・ベイダーのような「闇と闇の戦い」をも乗り越え、もがき苦しむのもまた人生なのだ。
親は我が子の「心のバケモノ」を育てないように、子供は自分の「心のバケモノ」を押さえつけコントロールする術を身に付けながら、親子共に成長していかなければいけない。
「忘れないで。私達いつだって、たった一人で戦ってるわけじゃないんだよ。」
宮崎駿監督が才能を絶賛し、もともと『ハウルの動く城』を手掛ける予定だったが実現には至らなかった細田監督は、学生時代にもジブリの採用試験を受けて落とされた経験を持つ。
後に宮崎監督から「君のような人間を入れると、かえって君の才能を削ぐと考え、入れるのをやめた」という手紙をもらったそうだ。
恐らく本作は、今現在の宮崎監督と細田監督の関係性もストーリーの根幹に反映させているのだろう。
ストーリーに沿った「順撮り」で、しかも各シーンに登場する「全キャストが一緒に行う」という細田組のアフレコ。
力は強いが不器用で一本気で頑固で短気で粗暴でいて可愛い一面もある「熊徹」を『渇き。』に匹敵するテンションで生き生きと演じた役所広司。
本作と同じく『おおかみこども~』で「父子家庭に育ち、父親を亡くしたあと天涯孤独の身となる」という主人公「花」を演じた「九太/蓮(幼少期)」役の宮崎あおい。
『おおかみこども~』では小学校の先生役として短い出番だった「九太/蓮(青年期)」役の染谷将太。
ただのロマンス担当のヒロインではなく、九太の「人間界での師匠」という熊徹と対になる重要な役割である「楓」を初々しく演じた広瀬すず。
伊丹十三監督のファンである細田守監督のオファーで出演が実現し、しかも伊丹映画に触発されて作った『サマーウォーズ』が好きだという「宗師」役の津川雅彦。
二人とも役柄のビジュアルに似た顔だが、意外にもキャラクターのモデルではないという「多々良」役の大泉洋と「百秋坊」役のリリー・フランキー。
主要キャラから脇役まで、二度とは揃わないであろう豪華な「役者」ばかりの声優陣だが、それぞれとても合っていて素晴らしい。
そして、Mr.Childrenの「Starting Over」と、親子の「軌跡」を辿るエンドロールで感極まる。
「あるだろ、胸の中の剣が。」
9歳の少年「蓮」は、両親の離婚で父親と離れることになり、親権を取った母親も交通事故で急死する。
両親を失った蓮は、心無い親戚に養子として貰われそうになるが、引越しの最中に逃げ出し、渋谷の街を独り彷徨い、バケモノと運命的な出逢いをする・・・。
少年は、人間界の「渋谷」と、バケモノ界の「渋天街」という相反する二つの世界を行き来する中で、生きる為の「永遠のパズル」を解きながら「大事なもの」を見つけ出し、自らの「意思」でそれを掴もうとする。
多くの人々が行き交う渋谷のスクランブル交差点と並行して「自分は何者なのか」という入口から入る「思春期」という名の迷路にある「心のスクランブル交差点」がある。
その交差点で、人間界とバケモノ界の「はみ出し者同士」が師弟関係を結び「親子」のような「疑似家族」になる。
「子供のような父親」と「いつか父親を超える息子」が、時にぶつかり、そして高め合いながら、お互いが成長していく。
「私だって時々、どうしようもなく苦しくなることがある。なにもかもどうにでもなれって思って、何かが吹き出してしまいそうになる。蓮くんだけじゃない。私だけじゃない。きっとみんなそう。だから、大丈夫。」
人間界にもバケモノ界にも「完璧な親」「完璧な子供」などいない。
熊徹も蓮も、それぞれの世界で「不完全」な存在だ。
親も子も「未熟者」だからこそ親子で助け合い、反発し合い、長い年月の中で切っても切れない「絆」が結ばれていく。
その固い絆があるからこそ子供は「強い心」を持って世界へ飛び出し、親の知らない所で「出逢い」を繰り返し、いろんな意味での「新たなる親」もどんどん見つけていく。
そんな人生を自らの意思で「自主的」に始める少年と、表向きは「親が喜ぶように」生きている少女。
本作では、この相反する二人が出逢うボーイ・ミーツ・ガール的な展開も巧く絡ませる。
多くの出逢いの中で、人それぞれ「心」にいろんな「強さ」を持っている事が判ってくる。
「あるキャラクター」と「母親の幻影」に一切説明が無い点と、ぼんやりと「母親の存在」を匂わせる構成も素晴らしく、物語を振り返るエンドロールでは涙が込み上げてきて止まらなくなる。
これは『おおかみこども~』のテーマと共通していて、いつも「母親」は無口で優しく、遠くにいるようで実は近くで「温かく見守っている」という存在なのだ。
子供時代に「自分と向き合うこと」の意味、大人になってから親として「子供と向き合うこと」の大切さ、難しさ。
子供が沢山の人から影響を受けて、グングン成長していく姿を最後まで見届けることが出来ない親の宿命。
そうやって子供たちは多くの「愛情」を親から、そしてたくさんの人たちから「勇気」を貰って、強い心で社会へと羽ばたいていく。
父親から貰った、かけがえのない「心の剣」を内に秘めて・・・。
「決着をつけなきゃならない相手がいる。勝てるかどうかは判らない。」