
「これってテレビで放送されるんですか?ウケる!」
「ゴシップ」が大好きな我々は、週刊誌やワイドショーやネットの掲示板などを賑わす「スキャンダル」「熱愛報道」「離婚騒動」「殺人事件」、特に「悲劇」で有名人であればあるほど大好物だ。
「事実かどうか」にはそれほど関心がなく「話題性」が最優先され、ネット網を駆使して「悪者」と決めつけられた人物の背景をどんどん暴いて晒していく「祭り」へと発展していく場合も少なくない。
誰もがネットで「嘘」と「真実」を世界に発信できる時代の危うさと、その真相を確認出来ないまま一つの情報として世界の人々が取り入れてしまう怖さが相乗効果で膨らんでいく。
その「デジタル」な現代社会ならではのスピード重視の「口コミ」の過程がジワリジワリと描かれた本作は、真っ先にネタに飛びつくマスコミの「やりっぱなし感」や「身勝手さ」も痛烈に描かれていて痛快だ。
「怪しい」とされる人物の周辺をしらみつぶしに取材し「都合のいい部分」だけを「勝手に」取捨選択し、面白おかしく編集し、私情を挟み、視聴者の感情を悪戯に刺激し、自由に翻弄し「核心」を上手く避けつつ「偏った結論」を無責任に我々に放り投げてくる。
「加害者」と決めつけられてしまった人物が発した言葉や情報は、ネットやマスコミの「フィルター」を通るうちに「悪意」が加わり、さらに世間の「疑惑」が加速していき世界に「拡散」されていく。
雑誌や新聞などの「印刷物」、特にニュースやワイドショーなどの「テレビ」の情報を鵜呑みにして信じてしまいがちな我々は「真実」を見分け追求する行為をサボり、マスコミと同じように悪戯に無責任に「不確かな情報」を再びネットに放り投げていたりもする。
そして誰もが負のスパイラルから抜け出せなくなってしまう。
「主観が変わると同じ出来事が違って見える」という現象はゴシップには付き物だ。
それは映画のスタイルにも昔から存在していて「一つの出来事を複数の視点から全く違う風に何度も回想し、どれが真実だったのか観客を混乱させる」という手法で、これを「羅生門スタイル」という。
チャン・イーモウ監督の『HERO』や『ユージュアル・サスペクツ』『バンテージ・ポイント』などが有名で、1950年の映画『羅生門』で黒沢明監督が用いた手法である。
ある一つの出来事の真相を、それに遭遇した人々それぞれに語らせることによって浮き彫りにしていく中で、お互いの利害関係や嫉妬や悪意が妨げとなって徐々に証言内容の相違や矛盾が発生し、なかなか「真実」に辿り着かない事で観客の思考さえも混乱させ疑心暗鬼にさせるスタイル。
本作は『告白』などの原作者「湊かなえ」の小説を基に、美人OLの殺害容疑を掛けられた女性をめぐって「人間の悪意」を浮き彫りにしていくサスペンス・スリラーでありヒューマンドラマ。
報道によって浮かび上がる容疑者像がインターネット上の「匿名」の誹謗中傷や煽りで暴走し、歯止めの利かない状態まで人を追い込んでいく現代社会の闇がリアルに描かれる。
同じキャラクターを「視点の違い」ごとに見事に演じ分けた役者たち、井上真央、綾野剛、菜々緒、金子ノブアキらの熱演と、傑作『フィッシュストーリー』を生み出した中村義洋監督の重過ぎず軽過ぎずの演出が本当に素晴らしい。
中村監督の『アヒルと鴨のコインロッカー』同様に「話し手」と「聞き手」の間に生じる「ズレ」によるトリックが効いているし、中村監督の『ゴールデンスランバー』に続き出演した貫地谷しほりの名演が泣かせる。
「ミスリード」が満載の本作は、世の中のゴシップに集まる「嘘と噂と妄想と偏見と思い込みと決めつけ」が入り乱れていて、その中にたった一つの真実が隠されている。
決めつけが決めつけの連鎖を生み、火のないところに煙が立ち、人から人へ伝わる毎に尾ひれがついて膨れ上がる怖さ、特にネット社会で加速しているこの現象の恐ろしさや「歯止めの利かなさ」が上手く絶妙にディフォルメされつつ的確に表現されている。
本作の主役でもあるデジタルコミュニケーションの象徴「Twitter」は、基本的に支持する者同士が膨大に繋がっているので中立な「賛否両論」よりも偏った「同調の連鎖」を引き起こしやすく、使い方次第ではとても危ういという事かもしれない。
やはり、何が真実か判らない複雑なデジタル社会の中で唯一忘れてはいけないのは「他人への思いやり」という、とてもシンプルで「アナログ」な感情なのだ。
「いいかよく聞け、人は記憶をねつ造するんだ。大切なことを見逃すなよ。」
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