クロニクル | 愛すべき映画たちのメソッド☆

愛すべき映画たちのメソッド☆

映画感想家・心理カウンセラー・芸術家のNatsukiです☆

『映画にどんなに素晴らしいメッセージが含まれていようと
「娯楽性」がなければ作品としては失敗だ』/レオナルド・ディカプリオ



「パーティは自己の価値観を確かめる場だ。」

何らかの理由で撮影者が行方不明になった後ビデオ映像だけが発見され、それを編集して劇場公開するという設定で進行する映画のスタイル「ファウンド・フッテージ形式」。

代表的な作品として『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や『クローバーフィールド』がある。

その「擬似実録映像=モキュメンタリー」スタイルとも言えるリアル感が凄まじい本作は『AKIRA』の熱狂的なファンである監督が撮っただけあり『童夢』も含めた「大友克洋」作品の実写化の様でもある。

「キャリー」や「エレファント・マン」の物悲しいテイストと「X-Men」「スーパーマン」誕生編の様な、ダークなアメコミ的エンターテインメント精神も併せ持つ奥深さ。

平凡で退屈な日常生活を送る3人の高校生はある日、超能力の様な特殊能力に目覚める。

有頂天になった3人は雲の上でキャッチボールをしたり、手を触れずに女子のスカートをめくったり、手に入れた力を使って刺激的な遊びに夢中になっていく。

そんなある日、煽ってきた後続車両に「力」を使って事故にあわせたことから、3人は次第に自らの力に翻弄され、事態は予期せぬ方向へと発展していく・・・。

本作は「もしも男子高校生が超能力を手に入れたら何をやるか?」という状況を、十代の目線でリアルに、段階を踏んで丁寧に描いている為に誰もがこの上なく感情移入できてしまう。

高校生ならではの「ふざけた力の使い方」が共感できるものばかりで親近感が湧き、YouTubeにアップされた素人動画の様に荒削りな「手持ちカメラ」の映像と合わせて生々しい青春映画としても素晴らしい完成度。

「青春の輝き」から「人生の絶望」まで、序盤とクライマックスのギャップで複雑に入り組んだ余韻も残る。

全ての場面を徹底して「ビデオカメラの映像」だけで描き切った点も素晴らしく、その場に居合わせた様な臨場感と近い距離感を生むことに成功している。

それは通常の映画の「第三者の視点=神の視点」では感じる事のない程にキャラクターの内面にまでクローズアップ出来ている。

これは「劇中世界に存在する視点のみ」で表現された本作ならではの特徴の一つで、主人公のビデオカメラだけではなく「防犯カメラ」「車載カメラ」「ニュース映像」「スマホのカメラ」などもコラージュして「目の前で起こっている感」を追求している。

まるで「低予算」を逆手にとったスティーヴン・スピルバーグの『激突』や『ジョーズ』の様に「見えないドキドキ」と「垣間見えた時の驚き」のバランスとアイデアを彷彿とさせる。

特に終盤は、ユニバーサルスタジオの「アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド」を思い出させる「主観視点スペクタクル」の連続で、驚異の全貌が「一部分しか見えない」事も手伝い手に汗握るアトラクション感覚を味わえる。

そういった「見せ方」のアイデアにも溢れていて、過去の 「ファウンド・フッテージ&モキュメンタリー」映画とは全く違った「新時代」の印象を受ける。

そして、M・ナイト・シャマランの「アンブレイカブル」と同様に、本作を二重構造的に「スーパーヒーロー誕生物語」として観た場合、後に続く壮大な世界観を想像する楽しみも無限に残されている。

十代ならではの「いじめ」「虐待」「失恋」、そこから劣等感を抱き《自己否定感》を募らせていく高校生。

長年の「疎外感」「孤独」「憤り」「悲しみ」そして「怒り」という感情が「自己否定」という大きなキッカケにより爆発した時に人の「心」はどうなってしまうのか、そして、その時に親友がとる行動が重要な分岐点となる場合もある。

本作には、その「精神的崩壊」の果てに『AKIRA』のラスト以上のリアルで苦い「現実」が待っている。

「 今日は人生で最高の日だよ。」



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