就活を通してたくさん好きなものや力を入れたことについて書くことが多い。
大切なものを書く時間は幸せで、
どうしたらこの気持ちが伝わるんだろうって自分の文才のなさや語彙力の無さを痛感する。
でもこの時間が大切に思えるから
それだけで就活して良かったなって
聞いてくれる会社を選べて良かったなって感じる。
凍りのくじらについて何回書いたかなって思って、わたしは本当にこの本が好きなんだなあって思う。
この事について書いてる時の私は
すごく優しい気持ちでいると思う。


障害児3兄弟と 父さんと母さんの 幸せな20年って本を今読んでて、
母親が子どもについて書く文章って
世界で一番優しい文章だなあって思う。私のお母さんも手紙の才能が無いって嘆くけど、私やお兄ちゃんについて書くときが何度かあって、
何度かそれを見る機会があったけど
やっぱり素敵だなあって思う。
優しくてあったかい文章だと思う。
私も子どもができたら誰かに手紙を書きたい。優しくてあったかい文章。

鴻上尚史のなんかの脚本のごあいさつで、子供を持つと、子供が傷付けられるようなニュースが見れなくなるって話があって、お母さんに聞いただけど、見れなくはならないけど心臓がバクバクすることはあるって言ってて。
やっぱり子どもを失う怖さとか、悲しみっていうのは私にはまだわからないものなんだなあって思った。
でもその悲しみとかにに寄り添える大人になりたい。今は。

でも最近わかったことがあって
偽善者だと思われるし何もわかってないって言われたらそれまでなんだけど、
子どもが置いていかれる光景がどうしても見ていられない。
おいてかないってわかってるし、
それぞれ事情もあるけど
置いてかれて泣いてたり、気付かなかったり、怒られてたりする子どもが
私は見ていられなくなる。どうしてそんなことするのって言いたくなる。
抱っこしてって言わないけど、
待っていてあげてよって思う。
でもこれも子どもを持ったら変わる考えなのかなとかおもう。
おしまい


永遠の0に、私が感動できないのは
宮部久蔵は実在しなかったから
彼の想いに全面的に感動すると
本当に戦争に参加した人達の思いは
どこに行けばいいのかと思うから
なのかな

たとえば、宮部久蔵という人物を含めてあの作品のなかの登場人物を全員
1人の人間のなかに潜むたくさんの
人格の1つで、宮部久蔵が死んでいったということはあの反戦的な、誰かのために生きようとする思いを戦争のさなか必死に殺したという意味で解釈するなら心が痛むし、感動するかもしれない。

誰かのために生きようとする思いは
たとえ戦争のなかにいたって心の隅でおもいながら必死に押し殺してるのに
それを大々的に言ってしまうのも勇気だとは思うけど、作家として書くべきはそれすら言えない当時の状況だと思うし、かと言ってそれをヒロイズムと言うのは考えが浅すぎる。許せないと思ったっていい。
ましてはそれを言うのが記者であることにどういう意味を込めて言ってるんだろうとは思う。マスメディアへの批判?それならその主張は映画でも受け継ぐべきだと思う。

捏造は言い過ぎだと思うけど、
これを本当に戦争のすがたとして
捉えてしまう人が出てしまうのなら
悲しい。やりきれないと思う。

本当は宮部久蔵なんて人はいなくて
話を聞いた人とかはみんな
本当はこう言いたかった、こうすべきだったって抱いた思いを実在しない人に思いを寄せて彼がしたことにした
っていう思いで存在したのが宮部久蔵で、彼との別れをそれぞれが思いを断ち切ろうとした瞬間を表しているのだったらいいなと思う。
そういう解釈で読めたなら私は胸が痛くて詰まるような思いを持てる気がする。