この「信仰を語る会」に、参加できない子が一人いた。初日の挨拶がすんですぐ体調を崩してしまったので、みんなも正直、どういう子かよく分からないまま、看護師さんが待機する身上者部屋へ移ってしまった。ぼくは班員たちに、「大勢が参加する学修の中で同じ班になった仲間との出会いは、決して奇跡ではなく、神様がしっかり見極めて引き合わせてくださった、いわば兄弟の中の兄弟なんだ」という話をした。それはぼくが、専修科で教えていただいたことだ。

 

身上者部屋で寝ている子は、どんな思いでいるだろう?今頃本当はこの輪に入って、一緒に過ごしていたはずなのに、布団の中で何を考えているだろう?ぼくはそう思うだけでいたたまれず、自分の自由時間には神殿へ足を運びお願いづとめをさせていただいた。すると、神殿でふと閃いた。

 

(みんなと一緒にお願いできないかな?)

 

生徒さんたちは授業が終わると宿舎に戻るまで自由時間があり、男女でダンスをしたり楽しく過ごすのが常だったが、もしお願いづとめをするならその時間しかなかった。けれど、学修は一週間しかないので、1日だって貴重だ。ぼくのそんなエゴで生徒さんたちの楽しい時間を奪うのは酷かもしれない。けどぼくは、それこそがおぢばでしか体験できないことじゃないか?とも思えた。

「身上で休んでる兄弟のために、みんなでお願いづとめをさせてもらうというのはどうだろう?みんなの自由時間が少なくなっちゃうけど・・・」

相談してみると、どう見回しても誰一人嫌な顔を見せず、みんな真剣な表情で賛同してくれた。しかもぼくの班員だけでなくクラス全員(男女全員)で。ぼくは胸がはりさけそうだった。

 

自分たちの自由時間をお供えしてくれる仲間たち。おつとめするぼくの後ろから、時折、鼻をすする声が聞こえてくる。何人も。おやさまがニッコリ微笑んでおられる気がした。おつとめが終わると、自由時間は残り10分となってしまったが、はしゃいで過ごすよりもグンと有意義だったと感じられた。生徒たちの顔がそう物語っていたのだ。

 

共に笑い、共に頑張り、共に泣く。それが学修。

 

身上でほとんど休んでいた子は「信仰を語る会」にこそ参加できなかったが、白羽の矢が立ち道友社の取材を受け、天理時報に掲載された。思いがけず心の内を明かす場をいただき、結果として全員が心の内を吐き出せたことになった。

 

「喜ばさずには帰されん」

おやさまのそのお言葉どおり、全員が笑顔でおぢばを後にした。

「また、いつか、おぢばで!」

 

 

<おしまい>

 

  

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