25 源有治の長男広瀬信親は大和国へ | 広瀬氏族の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

源有治の長男広瀬信親は大和国へ

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

1. 広瀬氏発祥の神社・廣瀬大社(奈良県北葛飾郡河合町)の存在は、源(宇野)有治の長男・広瀬信親が統治者から拝領支配した大和国広瀬郡(奈良県北葛飾郡河合町)にありますので、広瀬一族の研究当初から注目していました。
廣瀬大社との縁について次の通り、諸情報を整理分析して、これに基づいた一考察を述べさせて頂きます。

2. 2110年程前(紀元前89年)になる崇神天皇(前148~前29)との由来による廣瀬大社縁起によれば、大和国広瀬郡の里長(さとおさ=村長)の廣瀬臣(ひろせのおみ=崇神天皇から広瀬を賜った臣下の意)藤時(ふじとき)に、ご神託があり「この地は、水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。」という由来により、社殿を祀ったとされています。
  崇神天皇(第10代)は、実在した天皇の初代との説がありますが、119歳で没しており、2110年程前の生存年齢として現実性は否定される可能性が高いのです。

ご神託から764年後に、天武天皇(673~686在任)の命で、広瀬の地に寺社を造営することとなり、廣瀬大社は675年に創建されています。

3. 広瀬一族に伝わる史料によれば、清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1166頃~1230頃)が、広瀬氏の祖と伝わります。広瀬信親の時代には、1185年の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、そして、源頼朝による鎌倉幕府の開府となります。この年、源頼朝は守護・地頭を配置しました。

 源頼朝が自らの御家人に全国の領地支配を割り当てたこと により、平氏一門は当然ながら領地没収で、源頼朝との対立関係がなくても旧支配者は配転・左遷など様々な憂き目にあったのです。 
 
4. 宇野氏一族は、1185年の源平の戦いの頃まで大和国宇智郡宇野村(奈良県五條市宇野)の地を支配していました。源(宇野)有治は、長男で9人の男子兄弟でした。有治は長男でありながら仏門に出家した(政治への中立的存在となった)ため、有治の8人の弟たちは、一族間における統率者がいなくなったと考察します。

また、源(宇野)有治の長男・信親は広瀬の氏を賜り大和国広瀬郡(奈良県北葛飾郡河合町)へ移封され支配したものの、広瀬の地の支配は一代限りで終わり、信親の弟二人は遠隔地(俊治は関東・光治は東北)への左遷でした。

そして、信親の長男・広瀬康述は1200年に、超過疎地の美濃国籠谷村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への左遷でした。
当時の政権にとって、広瀬氏一族は源頼朝と同じ清和源氏の末裔でありながら、権力者からは存在感(政権への協力感)のない一族とみなされた可能性があると考察します。

5. 広瀬氏(臣・姓)一族に関する長年の専門研究者として、広瀬信親を広瀬氏の祖と位置付けしたいと考察します。
廣瀬大社の縁起にある廣瀬臣(ひろせのおみ)藤時(ふじとき)は、大和国広瀬の里の創建者であり、広瀬臣の縁起祖である尊い人物として、広瀬一族史の記録に残しておきたいと考察します。

廣瀬臣藤時を氏祖と断定できないのは、広瀬一族の系譜において、「系図纂要」(1975年頃まで国会図書館のみに所蔵が許可された系図の最高権威書)等の文献に廣瀬臣藤時の正統血縁を継承している末裔の系譜がなく、系譜上に明らかではないことが結論です。

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

                    広瀬家伝 ー25ー