古い木造りの家に、一人で暮らす老女がいた。
名前はヨシ。
庭には潮風に晒されたような、白く乾いた紫陽花が植えられている。
内陸のこの町で、なぜそんな花を育てているのか、誰も知らない。
ヨシは毎朝、決まった時間に起き、縁側に腰掛けて遠い空を眺める。その瞳の奥には、いつも深い青色が宿っていた。
それは、この町にはない、広大な海の記憶の色だった。
若い頃、ヨシは海辺の小さな村で育った。荒々しい波の音、磯の香り、夕焼けに染まる水平線。それらは彼女の日常であり、心臓の鼓動と同じくらい自然なものだった。
漁師だった夫とのささやかな暮らしは、時に厳しかったけれど、いつも海の恵みと、温かい愛情に満ちていた。
しかし、ある嵐の夜、夫は帰らなかった。残されたのは、打ち上げられた漁船の破片と、ヨシの心に深く刻まれた悲しみだけだった。故郷の海を見るたびに、その悲しみが蘇る。耐えきれなくなったヨシは、この内陸の町へと移り住んだ。
海のない場所で、海の記憶を封印するように生きてきた。
それでも、時折、無性に海を恋しくなる瞬間があった。
そんな時、ヨシは庭の紫陽花にそっと触れる。
乾いた花びらは、まるで遠い海の砂浜のように、ざらりとした感触だった。ある日、ヨシは近所の子供から、小さな貝殻をもらった。
それは、この町では決して見られない、鮮やかなピンク色の巻貝だった。子供は、旅行に行ったお土産だという。
ヨシはその貝殻を手のひらに乗せた。耳に当てると、かすかに潮騒の音が聞こえた気がした。
それは、遠い故郷の海の、懐かしい響きだった。
その夜、ヨシは久しぶりに夢を見た。青く広がる海の上を、夫の乗った漁船がゆっくりと進んでいく。夫は優しい笑顔で、こちらを振り返っている。朝、目覚めたヨシの頬には、一筋の涙が伝っていた。それは悲しみの涙ではなく、どこか温かい、希望のような光を宿した涙だった。
庭の紫陽花は、今日も静かに佇んでいる。
けれど、ヨシの心の中には、確かに潮騒が響いていた。
遠い海の記憶が、小さな貝殻を通して、再び彼女の心に流れ込んできたのだ。内陸の町で、ヨシはこれからも、かすかな潮の香りを胸に生きていくのだろう。まるで、潮風に晒された紫陽花のように、静かに、そして確かに。