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人は皆だれもが幸福でありたいと願っています。

しかし、

「私は何が起きても絶対に変わることのない幸福の中にいます」

と言い切れる人が世の中に何人いるでしょうか。

そもそも、そのようなことがあるのでしょうか?

僕自身もずっとそれを知らないでいました。

 

おそらくあなたもいま何かの苦しみや不安を持っているでしょう。

そこまで明確でなくても、あなたは心の奥底で、自分に何かが欠けていることを知っています。

または言葉にならない微かな不安のある状態で過ごしているかもしれません。

なぜなら、すべての人は何かしらそのような状態にあるからです。

それはいくら成功しようと、お金を持とうと、健康でいようと、幸福な家庭を持っていようと同じことです。

そのようなものは、少しはあなたを楽しませてくれるかもしれませんが、なにひとつあなたを真の幸福にすることはありません。

 

そのことに気づくきっかけとなったのは、あるインドの聖者の言葉でした。

 

監獄の中

 

ある日、暇つぶしにネットサーフィンをしているとき偶然に、あるインドの聖者の映像が現れました。

その人はとても美しい顔立ちで、思わず見惚れていると、その人はこう話し始めたのでした。

「あなたたちは監獄の中にいます」

この一言を聞いた瞬間、僕は心がドクンと震えるような衝撃を受けました。

そして、その聖者はこう話を続けたのです。

 

「あなたたちは監獄の中にいます。

あなたは、本当はそのことを知っています。

でもあなたはそこが監獄には見えないよう、きれいなカーペットを敷き、美しい壁紙を貼り、居心地のいいソファを置いています。

さらに、退屈しないようにテレビを置きます。

気持ちよく過ごせるよう、エアコンをつけます。

観葉植物や絵画で部屋を飾ります。

あなたは一生懸命、この部屋を快適にしようとします。

そして人生の大半をお金を得るために費やし、そのお金を使ってあれやこれやと気を紛らわせます。

あなたの人生とはそのようなものです。

それはそれで問題はありません。

続けたければ、どうぞ続けなさい。

 

でも、あなたは監獄の中にいます」

 

僕はこの人が何を言っているのか、ハッキリとわかりました。

そしてその時から、その「監獄」の外に出ることだけが僕の望みとなったのです。

僕はすぐに、この師の元で学ぶためにインドに向かいました。

 

インドへ

 

インドに着くと、そこは混沌とした別世界でした。

車道は一応二車線のラインが引かれていますが、誰もそんなものは気にしていません。三台も四台もぐちゃぐちゃになって走っています。

舗装道路が途切れると、泥道になり、人と一緒に牛が歩いています。

裸の子供が遊んでいます。

香辛料の匂いが漂ってきます。

そんな混沌とした世界なのに、妙に落ち着くような、懐かしいような、なんともいえない心地よさがありました。

そんな風景を眺めながら、その聖者の元に着きました。

 

そこでは多くのことを学びました。

そしていくつかの奇跡体験はあったのですが、僕が望んでいたのはそのようなことではありませんでした。

ただ「監獄から出る」ことだけを望んでいたのです。

しかし、そのことは起こりませんでした。

心の状態はここにきたときのままです。

やがてもう数日で帰国するという日になっても、それは起こりません。

焦りと失望でなんとも言えない惨めな気分になりました。

もうヤケクソになった僕は、

「おい、神さまとやら!

オレはこんなところまで来て、何ヶ月もここにいるのに、あんたは何一つ起こせないないじゃないか!

あんたはほんとにいるのか?

あんたが本当にいるんなら、いるという証拠を見せてみろ!

どうせできないんだろう、バカヤロー!」

と心の中で毒づきました。

そして、もうどうでもいいや、結局何も起きないんだ、と完全に諦めたのでした。

 

これは後になって師から言われたことです。

「神さまというのは、あなたたちが思っているような仰ぎ見るものではないのです。

神さまは、あなたが隠している虚栄心、嫉妬、嘘、執着、貪欲さ、自己重要性、ズルさ、そういうことはすべて分かっています。

神さまが求めているのは、そんなことへの贖罪や反省ではありません。

神さまが待っているのは、ただ、あなたが友達のように語りかけることだけなのです。

そして、あなたが自分では何もできないのだと完全に諦め、ほんとうに自分を明け渡したときにはじめて、神さまの恩寵が流れ込むのです」

 

その翌日の講義を終えて、庭に出たときでした。

突然、これまで体験したことのない不思議な感覚に包まれて、それに呑み込まれたのです。

それはいきなり違った次元に連れていかれたようで、しばらく何が起きたのかわかりませんでした。

やがて少し落ち着いてくると、とても穏やかな歓びがあって、世界を遠くから眺めているような感覚です。

そして目の前にある樹々も、建物も、人も、自転車も、花も、犬も、空も、道も、ゴミ箱も、すべてが、たったひとつの意識の現れだと、はっきりと感じたのでした。

その意識というのはまさに神さまそのもので、すべてが神さまで、神さま以外のものは何ひとつないのです。

ただ「神さま」だけが形を変えて存在しています。

世界がそのようなものだということは大きな衝撃でした。

 

しかしまだ何か奇妙な、説明できない不思議な感じが残っていました。

しばらくその「神さまが形を変えて現れている世界」をぼんやりと見ていると、やがてその理由に気がついたのです。

それは、それらを見ているものもまた「神さま」だということでした。

神さまはそのようにあらゆるものに形を変えて世界として現れていながら、その現れを、僕という身体を通して自分自身で見ているのです。

つまり、この世界には「神さま」だけしかないという、おかしなことなのでした。

 

このことがひとつの契機となって、さまざまな理解が始まりました。

そしてその後数年間、日本とインドを行き来しながら師の元で学び、さらに何人かのインドの聖者から多くのことを学びました。

彼らは身体としてはすでに存在していませんが、その教えは時を超えて僕を変えていったのです。

 

投網

わたしたちが赤ちゃんのときには、

「お母さんがもうお乳をくれなかったらどうしよう」

とか

「コロナにかかったらどうしよう?」

というような不安や心配はありませんでした。

ところがわたしたちの成長とともに脳も発達し、それにつれて「マインド」と呼ばれるものが徐々に大きくなってきました。

 

マインドとは、わたしたちの内側に湧き起こるさまざまな考えや思考のことです。

このマインドは人間が生きていくために必要なものです。

マインドがなければ、自立して生きていくこともできませんし、いまのような文明や文化をつくることもできません。

ですからマインドそのものには何も問題はありません。

それは単なる道具です。

たとえば、漁師にとっての投網のようなもので、投網を使うことによって楽にたくさんの魚を獲ることができます。

 

ところがいつの間にかその投網のほうが大きくなって、逆に人間がそれにからめ捕られた状態になってしまいました。

やがてわたしたちはこのマインドの中に包み込まれ、常にマインドというベールを通して世界を見るようになります。

そしてありのままの世界はベールに覆い隠され、その代わりにマインドという本来は道具に過ぎなかったものの創り出す世界が、わたしたちの世界そのものになっていきます。

 

そして、そのマインドを通して見る世界の中で、怖れがはじまり、不安がはじまり、心配がはじまり、ありとあらゆる苦しみが始まるのです。

 

ラベル貼り

 

あなたは電車に乗り遅れそうになって、大急ぎで駅へ走っています。

必死で階段を駆け上がったけれど、目の前で電車のドアが閉まってしまいました。

「あーも〜、どうしよう!」

次の電車は三十分後なので、あれほど楽しみにしていたコンサートの開幕にはもう間に合いません。

あなたはすっかり落胆してしまいます。

しかたなくプラットフォームでぼんやりしていると、しばらくして、先ほど出て行った電車が脱線事故を起こしたという案内が入ります。

あなたは思わず安堵に浸ります。

「ああ〜、乗らなくてよかった〜」

 

しかしここで起きているのは何でしょうか。

それは電車が出て、プラットフォームにあなたがいる、ただそれだけのことです。

 

このようにマインドはあらゆることに意味を持たせ、ラベルを貼ります。

実のところ、あなたがお金持ちになろうが、職を失おうが、コップの水がこぼれようが、結婚しようが、道で転ぼうが、病気になろうが、ピザを食べようが、雨が降ろうが、死のうが、財布を落とそうが、それはそれ以上の意味はありません。

それらに意味を付け加えているのはマインドです。

マインドはものごとにラベルを貼り、意味を与え、物語を作ります。

やがてわたしたちはその物語の中で生きるようになります。

 

さらにマインドはより確実に生き残るために、人生そのものに意味や目的を与えようとします。

家族のため、子供のため、人のため、会社のため、社会のため、というようなことからはじまって、国家のため、地球のため、神のため、というような壮大な目的まで考え出します。

しかしそれがいかに意味ありげに見えても、すべての意味付けは単なる「マインドのおしゃべり」なのです。
 

ふたつのマインド

マインドにはふたつの種類があります。

 

ひとつは「役立たずのマインド」です。

ノンストップでつぶやき続け、ものごとにラベルを貼り、意味を与え、物語を作り、比較し、決して満足するがことがなく、不幸が大好きです。

それは考えるマインドでもあります。

「神はあるのか?」

「人生の目的は何か?」

「生きる意味とは何か?」
質問し、答えを提供し、 そしてこれらの答えにさらにまた質問するということを延々と続けます。

 

もうひとつは「機能するマインド」です。

機能するマインドは、いまなされていることにだけ集中します。

なされている仕事が必要かどうかさえ関心があませんし、「誰」がその仕事をやっているかにも、その結果にも関心がありません。

たとえば、あなたは口のなかに食べ物がある間はそれを意識していますが、ひとたび飲みこんでしまえばどのように消化されているか意識しないでしょう。

マインドが役立つのは食べ物を飲みこむまでだけで、あとは停止していればいいのです。

ところが、思考や感情、欲望や恐れに対しては、あなたのマインドは停止できません。

このようなマインドの絶え間ない活動は病的状態なのです。

この病的状態の「役立たずのマインド」においては、その考えに終わりはありません。

考えるマインドにとってはすべてが問題なので、人生はいつも問題だらけです。そしてそれらの問題は決して解決されることはありません。

その中心にあるのは、いつも「わたし」です。

別名を「エゴ」と言います。

エゴは、行為を「わたし」が行っていると考え、考えた挙句に何かを行い、その結果に苦しみます。

だから、「わたし」さえ消えれば、あなたの問題はすべて無くなります。
 

脳外科医

ある高名な脳外科医がいました。

彼は神さまと強い絆で結ばれていました。

そして困難な手術があると神さまに心の中で助けを求め、神さまはいつもそれに応えて手術の方法を示してくれるのでした。

このようにして、彼は非常に優秀な医師として尊敬されていました。

 

あるとき、彼の執刀を見学するために世界中から医師が集まりました。

ちょうどひとりの男性が事故にあって病院に運び込まれました。

執刀に当たった彼が頭蓋骨を開いてみると、脳は酷い損傷を受けていました。

手術は困難を極め、彼は神さまに、これまでそうしてきたように助けを求めました。

「どうかこの人の奥さんを悲しませないように、彼を助けてあげてください!」

 

ところが答えがありません。

彼はもう一度頼みます。

「この人には子供が四人もいるのです。もしこの人が亡くなったら、奥さんも子供も路頭に迷ってしまいます。子供たちにはこの人が必要なのです!」

 

でも神さまの声はありません。

時間だけが過ぎていき、このままだと患者は間もなく死んでしまいます。

 

そのとき彼は、自分の心の中の真実に気がつきます。

そして彼は正直に神さまに話しました。

「わたしは、奥さんや子供のことなどよりも、手術が成功して自分の名声を守ることが大切なのです。だから助けてくたさい!」

そのとき突然、神さまの声が聞こえ、教えがやってきました。

そして手術は成功しました。

 

わたしたちは自分の醜さを知っていますが、決してそれを見たくありません。

だからわたしたちがつく嘘のほとんどは、実は自分自身に対してなのです。

でも神さまは、わたしたちの正直さを愛しているのです。

足あと

わたしたちの人生を返ると、偶然の出来事がたくさん見つかります。

ちょっとした偶然の一致もあれば、中には「奇跡」と呼べるものもいくつかあるかもしれません。 

そのようなとき、わたしたちは自分の理解を遥かに超えたものの存在を感じます。

その存在に気づきはじめると、わたしたちは自分の力で生きているのではないことを知るようになります。

 

ある人が、神さまと砂浜を歩いていました。

その人は神さまに尋ねます。 

「あなたは、わたしが生まれてからずっと一緒にいてくれたのですよね」

神さまはにっこりと微笑んで、その人にこう言います。

「そうだよ。振り返ってごらん」

砂浜を振り返ると、ふたりの足あとがずっと続いています。 

「ほんとうだ。あなたはいつも一緒にいてくれたんだ」 

 

ところが、ところどころひとりの足あとしかないところがあります。

それはちょうどその人の人生の中で、とても苦しくて辛い時間でした。

その人は尋ねます。

「でも、わたしがとても苦しいときや辛いとき、どうしてあなたは一緒にいてくれなかったのですか?」

 

神さまは答えます。

「あれはあなたの足あとではなく、私の足あとだよ。

あなたが苦しさや悲しさで自分ひとりでは歩けないとき、私があなたをおぶって歩いていたんだよ」

 

至福

あなたが赤ん坊のとき、あなたは至福の中にいました。

すべてが新鮮で、驚きに満ち、退屈することがありませんでした。

 

ところが徐々にマインドがあなたを覆い、世界はその輝きを失い、あなたは退屈さの中に埋もれていきます。

やがてあなたはひっそりと静かな絶望の中で死んでいきます。

 

生の本質は、至福です。

マインドが介入しない純粋な歓びです。

それはあなたの真我の輝きです。

世界があなたを至福にさせるのではありません。

あなたの意識が変容したとき、世界が至福に変容するのです。

なぜならあなたの世界は、あなたそのものだからです。

 

あなたが歓びのあまりに踊っているとき、その踊りに目的があるでしょうか。

あなたが朝焼けに染まる空に感動するとき、その感動に目的があるでしょうか。

あなたが冷たい水を浴びて「ひゃあ」と笑うとき、その笑いに目的があるでしょうか。

もしあなたがほんとうに人生を生きはじめたら、人生に意味を求めることはなくなります。

 

そして、呼吸することが至福となり、

歩くことが至福となり、

空を見ることが至福となり、

食べたり飲んだりすることが至福となり、

誰かを見ることが至福となり、

ただ在ることが至福となるでしょう。

 

 

 

幸せが目覚めるとき

 

あなたがこのブログを見た理由はひとつです。

それは、僕の師が言われた言葉がそのままその答えになっています。

 

「あなたが苦しんできた理由はたったひとつです。

それを体験する必要があったからです。

そしてあなたの準備ができたときに、あなたはこの教えと出会います。

その瞬間からあなたの苦しみは消え始めます。

そしてこれまで苦しみが占めていたスペースに、溢れるほどの幸福が流れ込むのです」

 

あなたがこのページを開いたのは、あなたの準備ができたからです。

僕自身には何の力もありませんが、僕が教わった「教え」は途方もないパワーを持っています。

この教えは、宗教でもなく、組織を作ることでもなく、ただただ人を幸福にするためのものです。

それは永遠に変わることがない幸せになる唯一の教えでもあり、もしかしたらあなたが辿り着く終着点と言ってもいいかもしれません。

 

あなたとの出会いに感謝し、そしてあなたがほんとうの幸せに目覚めることを願って。