日本にはかつて、「オレオレ詐欺」と呼ばれる詐欺の手口が広く知られていた。

ある日、あなたのもとに一本の電話がかかってくる。電話の向こうから聞こえてくるのは、「おい、俺だよ。覚えてないのか?」という声だ。詐欺に対する警戒心がまだ十分でないあなたは、その声に導かれるように記憶をたどり、「もしかして、○○?」と半信半疑で尋ねる。すると相手はすぐに「そうだよ、俺は○○だ」と答える。こうして相手はあなたの信頼を取りつけ、その後の不法行為の足がかりを得るのである。

 

近年では、子どもを持つ親を狙った類似の詐欺も現れている。ある日、父親のもとに突然メッセージが届く。「お父さん、事故にあった/トラブルを起こした/警察に捕まった。急いでお金を送ってほしい」。動揺した父親は、電話の向こうの人物が本当に自分の子どもなのかを確かめる余裕もなく、指定された口座へ送金してしまう。冷静になって違和感に気づいたときには、すでに相手は姿を消している。

 

こうした詐欺が繰り返し成功する理由を、単に詐欺師の狡猾さや被害者の不注意に帰することはできない。むしろ注目すべきは、「オレオレ」という言い方や、「お父さん」と呼びかける手口に共通する一つの特徴である。それは、張三や李四のような具体的な名前を用いることなく、ある種の呼びかけを行っているという点である。ルイ・アルチュセールはこのような現象を「主体への呼びかけ(インターペレーション)」と呼んだ。

 

たとえば、日本の街角で警察官が外国人に在留カードの提示を求める場面を思い浮かべてみよう。「あちらのあなた、ちょっと待ってください」。警察官はあなたの名前を知らない。ここでの「あちらのあなた」という言葉は、前述の「オレオレ」や「お父さん」と同様に、特定の一人ではなく複数の人間に向けて発せられうる呼びかけである。にもかかわらず、あなたは思わず足を止めてしまう。なぜなら、その呼びかけを聞いた瞬間、自分が外国人であるという立場を無意識に思い出すからである。

私たちの日常は、このような主体への呼びかけに満ちている。そして私たちは、それに応答することにすっかり慣れてしまっている。だからこそ、巧妙な詐欺師は人々の中に紛れ込み、もっとも日常的な呼びかけの形式を利用して私たちに接近し、警戒心を解いてしまうのである。

 

アルチュセールによれば、イデオロギーは常に主体というカテゴリーを通して機能する。すなわち、具体的な個人を主体として呼びかけることによって、イデオロギーは作動するのである。彼はこの点を説明するために、家族という場面を例に挙げている。

要するに、子どもが生まれる以前から、すでにその子は家族の期待の中に位置づけられている、というのである。父の姓を受け継ぎ、家族の一員として迎えられる存在として、子どもはあらかじめ想定されている。したがって、子どもは誕生以前からすでに主体として呼びかけられている、というわけである。

 

この考え方は、マルクスの有名な命題――「人間とはその社会関係の総体である」――ともある程度響き合っているように思われる。というのも、人間が生まれる以前から、すでに一定の社会関係や社会構造が存在し、その中に位置が用意されている可能性があるからである。もし人間が社会関係の総体であるならば、その位置があらかじめ与えられた時点で、主体はすでに存在していると言えるかもしれない。

 

しかし、ここでアルチュセールの例をもう一歩押し進めてみよう。

たとえば、愛し合う新婚の夫婦が、まだ妊娠していない段階から将来生まれる子どもの名前や教育方針について語り合っているとする。この場合、まだ受胎という出来事が起きていないという点を除けば、アルチュセールの例とほとんど変わらない。では、妊娠以前の段階においても、すでに主体が存在していると言えるのだろうか。

もしそうだとすれば、ある日病院から衝撃的な診断が下された場合を想像してみよう。男女のどちらかに生殖能力がないという結果である。このとき、「まだ生まれていない主体」の消滅は、病院の検査報告によってもたらされたことになるのだろうか。だとすれば、その検査こそが主体を「殺した」ことになってしまう。

 

別の例を考えてみよう。

まだ正式な関係にない男女が、単なる肉体的な関係の中で避妊を怠り、その結果女性が妊娠した。三か月後、体調の異変から妊娠が発覚する。男性は彼女に「産んでくれ。俺が育てる」と言う。このとき、男性の言葉は女性の胎内にいる子どもに、いわば後から主体としての位置を与えることになる。

しかし、その三か月のあいだ、受精卵として存在していた段階ではどうだったのだろうか。

 

この問題に対して、しばしば次のような説明が与えられる。すなわち、人間には生物的属性と社会的属性があり、受精の瞬間には生物的存在として成立しているが、社会的存在としてはまだ成立していない、という説明である。先の例では、人間の社会性が生物性より先に構想されていたことになる。

だが、この説明は本当に十分なのだろうか。

 

「生物的属性」と「社会的属性」を二つの独立した本質として区別してしまうと、新たな困難が生まれる。むしろここで改めて問うべきなのは、マルクスの言う「社会関係の総体」の中に、そもそも男女の性関係そのものが含まれているのではないか、という点である。

 

現代社会において、性関係それ自体がすでに一つの社会関係である。婚姻制度や倫理規範、社会的価値観の中で規定される以上、性関係は決して純粋に自然的な出来事ではない。男女二人の関係そのものが、すでに社会関係の一部なのである。したがって、人間の生物的属性と社会的属性を完全に切り離してしまうことは、今日において性そのものが社会性の一部であるという事実を見落とすことになる。

 

ここで、サルトルの有名な命題――「存在は本質に先立つ」――を手がかりに、この問題を考えてみることができるかもしれない。男女の性関係によってもたらされる受胎、そしてそこから生じる身体は、あらゆる主体の物質的基盤である。しかし、この物質的基盤の生成それ自体が、すでに社会的な過程の中にある。

言い換えれば、主体の存在とは、その主体に帰属するあらゆる本質を支える物質的基盤を与えることにほかならない。この基盤がなければ、本質は意味を持たない。

たとえば、これまで述べてきた主体への呼びかけや主体形成のプロセスを、ChatGPTのようなAIに対しても一通り試みることはできるだろう。しかし、そこから生まれるのは、生きた人間ではない。

 

したがって、主体を単にイデオロギー構造の中の位置として理解するだけでは不十分である。主体はまず具体的な存在を前提としなければならない。主体とは、純粋な生物個体でもなければ、単なるイデオロギーの産物でもない。それは、具体的な存在と社会関係の実践のなかで形成されていくものなのである。