お久しぶりです。
自分はもうすぐ大学院入試が迫っているにも関わらず、いまいち身が入らず省エネモードです。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
さて、今日のテーマは「誹謗中傷」と「批判」についてです。
ネットでの誹謗中傷によって自殺したニュースが広がって1ヶ月ほど経った後、某芸人さんの不倫報道でまたしても誹謗中傷が…となりましたね。
そのなかで、ユーザーの方々やみなさんはこんな疑問を抱いたと思います。
「誹謗中傷と批判って何が違うんだ…」
僕もずーっと頭のどこかで考えていました。
「謙虚さが足りない」とかそんな違いかなーと思ってました。面識もないのにそんな態度って失礼だろうなというリプがあまりにも多かったので。
そんなある日、院試の勉強である文献を読んでいたときにあることがピンと来ました。
「排除だ」
よく、「自分と他人との違いを認めて共生しよう」というニュアンスを耳にしたことがあると思います。
これは「差異を認める」ということです。では、「差別」とは何が違うのでしょうか…それが「排除」です。
例えば、「黒人差別」なら「俺たち肌の白いのとは違う人間だ。俺たちの住む世界に黒い人間なんかいらねぇんだよ」という排除。
「障害者差別」なら「普通の人でも出来ることをあなたはできないのね」という社会的な排除。
同じように、この誹謗中傷も「排除」の意識が表れているのではないでしょうか。
例えば、「お前なんか死んじまえ」は「俺らの住む世界にお前は必要ない」という排除。
「芸能界から身を引け!ドラマにも出るな!」は「俺らが好きで見てるテレビの中に、不愉快な思いをさせるお前なんかいらねぇ」という排除。
対して、「黒人差別なんかしてどうするの。」「不倫なんて…奥さんがかわいそうでしょ!」などが誹謗中傷に聞こえないのは、「排除」を思わせる表現がないからでしょう。
上記のような排除表現は、結局「俺たち」と他の人を巻き込みながらも、結局は自分中心にしか考えられてないことを意味するもの。だから人間性が見えてしまうのかもしれませんね。
ぼくたちが暮らす環境には、「自分とは異なるもの」を持つ人たちが多くいます。その中には「有り得ない…」みたいなことをする人も現れるでしょう。
そこで大事なのは「異化」することでしょう。つまり、「自分にとっての当たり前を当たり前じゃないとみなす」こと(極端な例を挙げると、何でこのスイッチ押すだけで電気つくんだろうとか)。それを通して他者との差異を理解し、工夫の術を生み出すことでしょう。
もちろん、法的に有り得ないことをした場合は例外でしょうけどね。
その理解が上部だけにならないためにはどうするべきか。考える余地はまだまだ有りそうです。