赤ちゃんは誰よりもコミュ力がある!?

一般に、人は社会・文化的な生き物であるといえます。多くの人が、他者との関わりなしに生きていくことはできません。作り上げられた社会や文化を媒介して、コミュニケーションをします。そこでは、「言葉」をツールとして、意思疎通を行い合います。そのような形で、人と人とが関わっていくのです。つまり、言葉を用いたコミュニケーションを人は前提としています。ともすれば、言葉が未発達な乳児はコミュニケーションが十分にできない、ということが考えられます。しかし、それでは乳児は社会の輪から外れてしまっているということになりますね。本当にそうでしょうか。


乳児は非社会的であるとする見解があります。先に述べたように、乳児は、言葉を発することができず、会話をすることができない、という点があるからです。スイスにピアジェという心理学者がいました。彼は自分自身の子どもに焦点を当てて、研究をしたということは心理学界では有名な話です。この点に関して、初期のピアジェは、自身の年少の子どもの観察を通して、子どもの存在様式を非社会的な自閉的存在としました。乳児とはいえ、人のことを非社会的かつ自閉的存在とするとは、驚きですね。


このような見解とは反対に、乳児には全く独自な、極めて独特な社会性が見出されている、という見方があります。どういうことでしょうか。


乳児の独特な社会性は、もちろん、乳児期の固有な発達の社会的状況に由来しています。その乳児期の固有な無類の発達の社会的状況の独自性は、次の2つの重要な基本的な要因によって規定されています。


第一の要因は、乳児は無力だということです。生物学的にみても全くの無力だとわかります。それによって特徴づけられる特質 ― たとえば、自分ではどのような欲求をも満たすことができない、など ― ゆえに、乳児の全生活が「他者」との関係によって創られ、大人の関与によって組織されているということなのです。


たとえば、乳児の最も初歩的で基本的な生命維持に関わる欲求でさえも、世話をしてくれる大人の助けがあって初めて満たすことができるのです。乳のみ、位置替え、簡単な寝返りすらも、大人の協力がなければなしえません。このように、乳児と現実の関係は、そもそも社会的なのです。この意味を考えると、乳児は最大限社会的な存在と呼ぶことができますね。

「何が起ころうとも、いつでも乳児は世話をしてくれる大人と結びついた状況にいる。それゆえに、子どもと周囲の大人との間には、まったく独自な形式の社会的関係が生ずる。とりわけ生物学的機能の未熟さゆえに、のちに子どもの個人的な適応の範囲内にあり、子どもが独力でおこなうようになるすべてのことが、いまは他者を介してのみ共同の状況の中でのみおこなわれるのだ。このように、子どもと現実との最初の接触(もっとも基礎的な生物学的機能を遂行する場合ですら)は、全面的かつ完全に社会に媒介されている。」(ヴィゴツキー,1984

こうして、現実と乳児は、そもそも初めから、常に大人によって媒介されており、常に大人との関係のプリズムを通して屈折されているのです。


乳児期の固有な発達の社会的状況を特徴づける第二の要因は、言葉が話せないということです。言葉が話せないことが、なぜ社会的といえるのでしょうか。


乳児は大人へ最大限の依存をしています。その全ての行動が、社会的なものに完全に織り込まれ、編み込まれているにも関わらず、乳児にはまだ人間の言葉という形での社会的コミュニケーションの基本的手段が欠けているのです。このように、人間の生活体制全体から、乳児は大人との最大限のコミュニケーションを強いられているのです。ところが、このコミュニケーションは言葉によりません、しばしば「無言の全く独特のコミュニケーション」なのです。


ここに、「乳児の最大限の社会性」と「最小限のコミュニケーションの可能性」との間に、基本的な矛盾が立ち現れます。ヴィゴツキーによれば、この矛盾の中にこそ、乳児のあらゆる発達の基礎がある、とのこと。こうして、第一の要因と第二の要因は、お互いに止揚し、乳児期に固有な発達の社会的状況の独自性をもたらすことになるのです。それゆえ、乳児を持つ親たちもまた、この独自な文脈を理解すべきなのでしょう。

参考

ヴィゴツキー 1984 柴田義松訳「新児童心理学講義」新読書社 2002

前記事 http://ameblo.jp/educational-psychology/entry-11958552451.html  からの続きです。


私たちがことばを覚える以上は、使用範囲、使用期限、使用頻度数の大なる概念を覚えるほうが効果的なのであるという考えで、前回は終わりましたね。


今夜は「概念を覚える」ことから考えましょう。記憶のときには、概念だけでなく、理論があるならそれも一緒に覚えておくほうがよいでしょう。理論は概念よりも守備範囲が広いし、使用期間も長いのです。


では、ここで「交流分析」を例に挙げます。


構造分析・やりとり分析・シナリオ分析・ゲーム分析・時間の構造化という五つの大きな概念が束になって交流分析という理論がつくられます。さてそこで構造分析という概念が将来仮に修正・削除されたとしても、交流分析という全体像つまり理論は変化が少ないのです。つまり、それが生き残る期間も長いということになります。

ところが「概念」や「理論」にくらべると「事実」は記憶にとどめる値打ちはやや下がります。事実は概念や理論よりも修正される可能性が高いから、せっかく記憶してもむだになるおそれがあるからです。

たとえば、異なる心理テストやアンケートで調べると、異なる事実が出てきたり、サンプルの大きさやサンプルのとり方が異なると抽出される事実が違ってきたりすることがあります。また時代や文化の変化につれて、せっかく覚えた事実が変化することがあります。それゆえ、事実を覚えるなら、なるべく持ちのよい、使用頻度の高い、使用範囲の広い事実を覚えるほうがよいのです。たとえば、鎌倉幕府は西暦何年か、酸性とアルカリ性の物質は何か、生活習慣病にはどんな病気があるかなどです。


主要な概念、主要な理論、主要な事実を記憶しているがゆえに、ある状況におかれたとき、多分こういうわけでこうなったのであろうと解釈思考)できます。多分かくかくの処置をすればかくかくの結果になるのであろうと推論思考)もできます。つまり「考える」という作業は、あるていどの概念・理論・事実を記憶しているから可能なのです。考えるとは、頭の中で、概念と概念を組み合わせてみたり、事実と概念をつなぎ合わせてみたり、理論から仮説を推論してみたりという試行錯誤を繰り返している状況のことです。したがって、何の知識もストックしていなければ考えようがないということになります。


それゆえ、記憶力はむだだとはいえないのです。記憶するに値することを全部知りつくしたところに、創造的思考が育ちます。腕をこまねいて、無の心境になったときに創造的思考が発現するわけではないということなのです。



以上を要約しましょう。


概念・理論・事実を記憶しているがゆえに、混沌たる状況を整理し、解釈し、予測できるのだ!!


ちょっと強く言い過ぎましたでしょうか…


昨今、スマートフォン等が普及し、何でもすぐに写真を撮ったり、録音したりするようになりました。SNSにて、写真を撮ってアップして、炎上して人生を台無しにしているような話もよく出てきています。

これからもスマホのような外部記憶補助も含め、さまざまな記憶・暗記(記録)の方法が氾濫するようになることが予想されます。それは文化的潮流ともいうべき新しい媒体の発現によるものです。しかし、どの時代に於いても、記憶するということの根本は普遍であると私は考えています。


記憶は外部に頼るのではなく、自分自身の中に留めておきたいものですね。


今回はこれにて筆を擱きます。



学校教育での学びは、日々、ダイナミックに変化しています。学びの視点は、流動的に変化しているのです。教育において様々な考え方があるのは当然のことです。中には、本当の勉強は「考える力を養う」ことだとか、本当の勉強は「勉強の仕方を勉強する」ことであるとか、要するに暗記は本当の勉強ではないと思っている人がいます。


文科省の実施する全国学力調査ではA問題とB問題に分かれていることは、教育界では有名なことです。A問題とは、記憶量を問う問題であり、B問題は、記憶をいかに活かすことができるかを問う問題です。一般に、前者は「知識力」、後者は「知識活用力」と呼ばれています。

今回は、前者の「知識力」、いわゆる記憶(暗記)について考えてみたいと思います。


私は記憶があらゆる勉強の前提条件だと思っています。たとえば、漢字を暗記していないと本は読めませんし、メモひとつとれません。いわゆる知識力とは、「基礎学力」なのです。


少し前の書物で読んだことなのですが、アメリカのある大学院では、小学生のように基礎学力を暗記させるという情報がありました(失礼ながら出典を失念…)。そして期末考査も「知識の量(=知識力)」を測定する発問が細部に渉りたくさん出ます。ですから、山が当たったとか山が外れたとかは学生の話題になりません。出題はまんべんなく各領域をカバーしているからです。


以上から言えることは、義務教育修了者の基礎学力があるように、大学院修了者の基礎学力があるということです。知識力(=基礎学力)とは、「学習量が多いか少ないかの度合い」のことなのです。つまり知識力が高いとは記憶の量が多いという意味になります。


ではなぜ記憶が大切なのでしょうか。


まず、ことばを記憶していなければ外界のことも内界のことも、何がどうなっているかをはっきりつかむことができません。たとえば、「学力」ということばと「知能」ということばを知っているから、学力の低い児童・生徒に会ったとき、「ひょっとして知能の発達が遅れているのではないか」と考え、検査することができます。

 状況の把握とは、自分の記憶にあることば、つまり概念を用いて状況を整理することです。しかし、多くの人々がそれらを忘却してしまいます。この観点からすると、同じ記憶をするなら、使用範囲の広い、使用期限の長い、そして使用頻度の高い概念を覚えたほうがよいということになります。たとえば、「抑圧」ということばを知っていると、神経症者や非行少年を理解するときにも使えますし、日常の人間関係を読み取るときに使えます。また、自己分析にも活用できます。ところが、ことばは無限にあります。すべてを覚えることは不可能でしょう。私たちがことばを覚える以上は、使用範囲、使用期限、使用頻度数の大なる概念を覚えるほうが効果的なのです。



今日これまでにします。

続きは、また次回。

次回は、「概念を覚えること」から考えたいと思います。

平成25年8月24日神奈川県総合教育センター公開講座 水谷修氏 考察


教え子たちが学校を卒業するときには、これまで感じたことのない感動がありました。

しかし、そのような卒業式が、すべての学校で行われているわけではありません。感動的な卒業式もあれば、激しい憎悪の中で、ツバをはきかけるような思いの中で行われた卒業式もあるに違いない、と水谷氏は言います。


卒業したあとには、また、それぞれの人生が待ちかまえています。

私は今、勉強とか学習とかいうものは、長い人生を通して、死ぬまでつづけられていくべきものだと考えています。人は、いつかかならず何かの仕事をすることによって、一人前になってゆくものだと、考えるようになりました。

学校に行っている間は、その仕事を見つけるまでの、また仕事につくまでの準備なのでしょう

だから、どんな仕事をするようになるかを探す「旅」の時間、そのための基礎的な時間をたくわえる時期が、私は学校生活であるという気がします。


その大切な学校生活が、現在では、恐ろしい空間になっていまい、とても楽しみにして通うところではなくなってしまっているのです。

私が、水谷氏を通して聞いたり、見たりした現実は、日を追うごとにエスカレートして、現在ではもっともっと厳しい現実になっています。今では、中学生が、タバコを吸うのは当たり前のことで、シンナー、薬物乱用をどのようにするのかというところにきているということです。

教師と生徒との関係も、信頼関係とはほど遠い、憎み合いになっているというのも、聞いています。どこの学校でも、まず授業が成立するかどうかが問題になっているということも聞いています。


そうしたすさまじい状況から比べると、日々、私が教員として、子どもたちと接している場面や思いというのは、軽いものになってしまうのでしょうか。けれども、私は、現場の教員として、直面している一つひとつの問題の根っこを受け止めてみようと思います。力が足りなかったと思うけれども、一緒に考えてみたいと思ったのです。

そうすると、どうしても、一番底のところに、「家」とは何か、「親」とは何かという問題に横たわっているような気がしてました。


親と一緒になって考えなければならないこと、親とぶつかり合わねばならないこと、そして、親と一緒になってやらなければならないことが、本当は一番大切なことなのに、今は、それがなされていないということに、私は気づきました。

私は、この課題から、子どもたちも、子どもたちの親も、そして私も逃れられないと思っています。そして、逃げないで、一緒に変わってゆきたいと思います

親というのは、「いのち」を産み、育てるものです。今、「いのち」がはぐくまれ、育ってゆくことが、とても難しくなっているのでしょう。

そういう時代の中で、子どもたちが生きてゆくためには、親とぶつかり、親とともに生きてゆくことが大切なのです。


力不足で、不満足なことも多いと思うが、ぜひ、いろんな子どもたちの意見を聞きたいと思っています。




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