触れられない距離(12)
木村さんはいつも通りだ。いつも通り一人で浴室にこもり、いつも通り俺の濡れた髪に文句をつける。いつものことではあるのだが、もう少し情緒というものを大切にできないものだろうか。ドライヤーと一緒に脱衣所に放り込まれた後にそんなことを思う。言えば最初から髪を乾かしていればいいだけだろうと返されそうな気がするので口にはしないが。すぐ乾くのだから放っておいてもいいだろう。とはいえいつまでも文句を言われ続けていれば勃つものも勃たないので仕方なく髪を乾かす。 そんなことをしている間に寝落ちはしないかと案じていたのだがその心配は杞憂に終わった。手早く髪を乾かして寝室へと戻れば木村さんはベッドで寛いでいた。眠っていないのは見ていればわかる。ドアを開く前から物音や気配で俺が戻ってきたのはわかっていただろう。だが木村さんはドアを開く音がしてからようやくこちらを見た。「ちゃんと乾かしたか」「乾かしましたって。アンタは俺の母ちゃんか」 どうにも俺の言葉が信じられないらしい。手招かれるままに近付けば手は頭へと伸びる。避ける間もなくわし掴まれ、それからぐしゃぐしゃと乱雑に掻き撫でられた。「髪が乱れるんでやめてくだせェ」「すぐ戻るんだからいいだろ」 抗議をするが手応えはない。上の空というか、髪を掻き撫でるのに集中していてろくに俺の言葉など聞いていない気がする。……ううん、なんというか、俺を犬とでも勘違いしてるんじゃないだろうか。この人が俺の髪を気に入っているのはよく知っている。自分とは違う髪質が物珍しいのかもしれないし、単に手触りが好きなのかもしれない。別に撫でられること自体が嫌というわけでもない。ただこの場でそれをされるのはいかがなものかと思う。なんというか、雰囲気が穏やかな方向に転がってしまう気がして落ち着かない。違うだろう。今醸すべき雰囲気はそれじゃないだろう。文句を言いたいが、言ってしまえばそれはそれで雰囲気がおかしな方向に転がってしまう気がして憚られた。 わしわしと撫でられつつ、抵抗することは早々に諦めた。なんだろう。素直に最初から髪をきちんと乾かしておけばよかったのかもしれない。かもしれないというか確実にそちらの方が良かったわけだが、今更己の選択ミスに気付いたところでどうしようもない。今更じたばたともがくよりこの人の気が済むまで好きにさせておいた方が落ち着くのは早いだろう。 そう判断して大人しくしていれば、頭を撫で回す手が少しずつ落ち着いてくる。そろそろ気が済んだだろうか。手を叩き落とすタイミングを窺っていると木村さんの手に力がこもる。撫でるだけだったこれまでとは雰囲気が異なる。指に一本一本にまで力がこめられ、爪が立たない程度に強く頭へと食い込んだ。強く頭を掴まれた痛みに表情が歪む。それ以外の反応を俺が示すよりも早く、強い力によって引き寄せられた。 木村さんの方へ、ということはベッドに引き寄せられることと同じだ。急なことでバランスを崩し、転がり込むようにしてベッドへと入り込む。ベッドに手を着いて体勢を立て直すよりも早くに木村さんが動いた。掴んでいた頭を更に強く引かれる。「んっ」 甘く噛み付いてきたかと思えばそのまま舌が口内へと滑り込んでくる。後れを取ってしまったのは痛い。反応しかねている間にも木村さんの舌は深くまで入り込んできて、俺を弄んだ。溢れ出てくる唾液を舌と一緒に吸い上げられる。逃げようとしても舌を搦め取られ、柔い肉をぐにぐにと押される。上顎をゆっくりと撫でられると身体がぐったりと弛緩していく。せめてもの抵抗にとその胸を押して返せば存外あっさりと木村さんは離れていった。距離ができたことで木村さんの表情を窺うことができるようになる。「……アンタやっぱり癖が抜けきってねェでしょ」「いいや、全くもっていつも通りだ」 嘘をつけ。いつものアンタがこんなに積極的なわけがないだろう。そう反論しても木村さんは涼しい顔をしている。行動はさておき、頭の方は普段と別段変わりはないらしい。それでこれか。俺はよほど胡乱な目を向けていたのだろう。涼しい顔のまま木村さんが続ける。「一ヶ月も我慢してたんだ。多少は積極的にもなるだろ」 何をわかりきったことを、とばかりに木村さんはそう断じる。木村さんの方も多少はヤりたいと思っていたことは知っていたが、こうも積極的になるほどだとは思いもしなかった。木村さんの行動が意外で仕方がない。本人から説明を受けてもなお、やはりまだ淫魔の特性や記憶を引きずっているのではないかと疑ってしまう。積極的な木村さんというのはそれくらいに俺の中ではレアリティが高い。そんなことを考えつつ観察を続けていると、眉間にぎゅうと皺が寄った。「いつまで呆けてやがる」 呆けているつもりなどなかったが、木村さんにはそう映っていたらしい。目を覚まさせるかのように軽く頬を叩かれ、意識が引き戻される。「アンタが柄でもねェことするから、でしょう、よっ!」 肩をがしりと掴んで押し倒す。自重も乗せて勢いをつけていたために木村さんはベッドへ深く沈んだ。力が強く加わったせいで肩が痛むのか、抗議の視線を向けられる。それを無視して衣服の下へ手を潜り込ませた。「んっ……」 素肌へ触れればぴくりとその身体が震える。汗を洗い流してきたばかりの身体は手触りもいい。びっしりとついた筋肉を撫でながら手を上へと滑らせていけば指先へ引っかかりを覚えた。引っ掛かったままに引っ掻き、潰し、捏ねれば木村さんの息が上がる。噛み締められた口は屈辱だと言わんばかりに歪んでいた。震えるように首を触れば、それに従って黒髪がシーツの上へ散らばる。それを眺めていると木村さんと視線が合う。耐えるようにシーツを握り締めていた手が解かれ、それから俺の方へ。「っぶ!」「回りくどい」 がしりと顔面を掴まれておかしな声が出てしまう。手には徐々に力が込められていき、掴まれた肉が寄って顔が歪む。面白い顔になってしまう前に身を引き、木村さんの手から逃れた。「何すんですか。俺の素敵な顔が台無しでしょうが」「自分で言うか」 呆れられてしまうが、俺の顔がいいのは事実なのだからそこは認めるしかないだろう。だいたいアンタだって俺の顔好きでしょうに。思わずそう返しそうになるが木村さんがそれを遮った。早々に脱線しそうになったのをいち早く察したのだろう。顔がいいこと自体は否定しないようだ。アンタ、なんだかんだ言いつつ俺の顔好きですよね。「そういうまどろっこしいのはいいんだよ。もっとシンプルな目的があんだろうが」 眉間に皺を寄せて不機嫌そうに。だが実際に不機嫌だというわけではない。まあ、機嫌はよろしくないのだろうがそれは俺に対して不満を抱いているからであって。「はあ、それはつまりあれですか。我慢できないから早くハメて?的な」「殺すぞ」 とびきりの殺意を込めて睨まれる。殺害予告は受けたが否定は返って来なかった。それはつまりまあ、そういうことだ。まどろっこしさでいうならこの人も人のことは言えないと思う。……まあいい。ここはひとつ、俺が大人になってやろう。その意見自体に異議はない。「う、おっ!?」 足を掴んで押し広げればなんとも色気のない声が上がる。誘っておいてそれはないんじゃないだろうか。そう文句を口にすれば急に動かす俺が悪いと返ってくる。反論するのも面倒で心にもない謝罪を口にしつつ、本懐を遂げるべく黙々と行動する。手に取ったゴムの包を破り、ごそごそと探りながら己の中央部へとかぶせていく。何度も繰り返している行為だ。手元が確認できない方といって手間取るようなことでもない。 根元までしっかりと嵌め込んだところで再び木村さんへと触れる。足の付け根をたどり、ボクサーの隙間から指を潜り込ませた。「ばっ……! なんで、そのまま……」「脱がせんの面倒ですし。そもそも、なんでわざわざ履き直してるんで?」「はあ? 普通は履き直……っ、ぅ」 窄まりへ押し当てた指へ力を込めればずぶずぶと沈み込んでいく。中はどろどろと不自然なまでにぬかるんでいる。「ヤる気満々だと思われたくねェって? こんなことになってる時点で今更だと思いますがね」 指を挿し込んだことで秘部は開かれ、それによって中へ溜まっていた潤滑油がどろりと漏れ出す。その感覚によって木村さんの肌が粟立った。穴を開く度にどろどろと中から溢れ出してくる。一体この人はどれだけ中に注ぎ込んでいるのだろう。まあ、この分なら継ぎ足す必要もなさそうだ。「総悟、ちょっと待て。きついから脱がせろ」 見れば木村さんの股間はボクサーの中で窮屈そうにしている。布地に邪魔をされて思うように起ち上がれないでいる。窮屈だという気持ちはわかる。だがその要求に応じるつもりはなかった。 ボクサーを引っ張り、横へずらすことで隙間を作る。木村さんが咎めるように俺を呼ぶ。だが応じなかった。 そもそも、焚き付けたのはこの人だ。ああ、そうとも、一ヶ月だ。枯れているわけでもないのに一ヶ月も耐えていたのだ。これ以上の我慢がはたして必要だろうか。答えは否だ。これ以上待つ必要はない。今すぐに目的を果たすべきだ。 木村さんの制止は止まない。だがそれを振り切り、押し当てた熱を埋め込んでいく。穴はすんなりと俺を迎え入れた。「…………ッは、ぁ」 熱を帯びた息がゆっくりと吐き出されていく。うねる中は熱く、すぐに達してしまいそうになる。そういえば自慰もろくにしていなかった。そのせいか思っていたよりも限界が近い。そのことに焦りを抱く。だがそれでも動きを止めることはなかった。 一気にすべてをおさめれば内壁がきゅうきゅうと吸い付いてくる。それに押し出されるように息を吐くと、木村さんが口を開く。「……動いていいぞ」 普段は挿れてすぐに動くと文句を言うくせに、一体どんな風の吹き回しだろう。そう思いはするもののそれを問う余裕はなかった。こうしている間にも内壁は絡み、うねり、締め付けてくる。のんびりとしている余裕はない。理由がどうあれ許されたのならばこれ以上己を律する必要はない。 腰を引いて、打ち付ける。引き抜いた分と同じだけ埋め直せば木村さんの声が引き攣れた。内壁を抉るように意識して何度も抽挿を繰り返す。 木村さんの息が徐々に上がっていく。付け根の震えは少しずつ間隔を狭めていく。不意に持ち上げられた木村さんの手はぶるぶると震えていた。手は身体の曲線を辿りながら下へ。汗ばんだ身体へ触れる度にぺたぺたと手は張り付く。それを剥がすように持ち上げながら、そうして木村さんの手はなんとか目的地へ辿りついた。 手はボクサーの中へ潜り込み、布地を押し上げていた熱を引き摺り出してくる。ずらしたボクサーの隙間から飛び出たそれは充分すぎるほどの硬さを持ち、その存在を主張している。それに木村さんの手が絡む。 中からの刺激だけでは足りないのだろう。中を強く抉れば手はびくりと跳ねてその動きを一瞬止める。だがすぐにのたのたと動きは再開され、無骨な手が自身を慰める。粘着質な水音は木村さんの手元から聞こえてくるものだろう。次第に快楽を追いかけることに集中し、口を開くこともなくなっていく。瞼は固く閉ざされ、その中にある感情を読み取ることはできない。それでも身体が高まっていくのはわかる。身体に少しずつ力が篭っていく。木村さんは決してそれを口にしようとはしないがこのままいけばじきに極めるだろう。俺からと、自分自身から。二方向から快楽を与えられているゆえに果てを見るのは木村さんの方が早かった。「─ッ、は、ァ!」 悲鳴と吐息の中間。そう思えるような曖昧な声を零し、木村さんは達した。それに呼応するように中が強く締まり、俺を追い詰めていく。だがまだだ。引きずられて達するには至らない。もう少し。もう少しだけ。「ぅ、ぁ、ちょっ、と…ま、て……」「っ、すいやせん、あと、ちょっとなんで」 こんな半端なところで止まれるはずがない。木村さんの切れ切れな制止を振り切って律動を続ける。達したばかりの身体は刺激にひどく敏感だ。突く度に身体が跳ね、中が絞まる。そのおかげで存外早くに頂上へ登り詰めることができた。「─ぐ、うぅ……ッ」 どくどくと、脈に合わせて注ぎ込む。今回は中にではなくコンドームへ。すべてを吐き出し終えて一息ついたところで木村さんの様子を窺う。達した直後に俺が動いたせいで余韻が未だ抜けきっていない。固く閉ざされていたはずの瞼はいつの間にか開かれ、真っ直ぐにこちらを見上げていた。その目の中、中央にはしぶとく理性が居座っている。それを確認した瞬間、背筋が震えた。恐怖や悪寒ではない。これは歓喜だ。ああそうだ、アンタはそうでなくては。情欲が窺えないわけではない。だがそれらは押し退けられ捻じ伏せられ、片隅に小さく存在するばかりだ。強く根を下ろしているのはいつもと変わらぬ理性。やはり、木村さんの杞憂など所詮は杞憂に過ぎなかった。この程度で削がれる理性ならば、とうの昔に俺が落としているはずだった。決して落ちないのが木村さんだ。これまでの木村さんも悪くはなかったがやはりこうでなくては噛みつき甲斐がない。ああ、いつもの木村さんが戻ってきた。確認せずともそうわかるのに、つい確証を得たくなってしまう。余韻を引き摺るこの人から決定的な言葉を引き摺り出したかった。「飲みます?」 まだほんの少しでも淫魔の気が残っているのなら木村さんはその誘惑を振り払いきれないだろう。しかし、そんなことは考えるだけ無駄だった。間髪入れず、ぴしゃりと拒否される。「いらん」「あら、これを機に精飲にはまったりしてないです?」「ないな。おぞましいことを言うんじゃねえ」 心底嫌そうに表情を歪めるその姿はまさしく木村十四郎そのものだ。 ああ、ようやく。どうやらこれまでの事態に不満を抱いていたのは木村さんだけではなかったらしい。すべてが去った後で自覚するというのも間抜けな話だが。 無事に戻って良かった。そう思いつつも素直に口にすることはできない。この口でそんなことを言ったところで、痛いほどの警戒を向けられるのがオチだろう。だから言わなかった。安堵しているのは木村さんも同じだろう。強く理性を宿し続けることで杞憂は杞憂でしかなかったことを証明した。安堵して気が抜けていたのだ。「もう一回してもいいですか」 そのおかげで普段は高確率で却下される要求は意外にもあっさりと通り、俺を盛大に困惑させた。つづく。。。