このところ話題になっているマインドコントロール。

コレを定義するのが難しい理由は、自由意志自体があやふやなものだから、なんですよね…ダウン

 

 

 

「自由意志に従って自己決定をする」

と、もっともらしく言っても、人間が認識できる範囲は限られているから、選択肢が無限にある訳じゃないんですよねぇ。

場合によっては、自由意志のふりをさせて「答え」を強制させることも、結構簡単にできてしまう…。

だから霊感商法も成立してしまう。

 

また、臓器売買や人身売買。

貧困で明日食べる物の確保すらままならない人ならば、何度も説得されたら断れなくなりますよねぇ。

安楽死ですら「家族に迷惑かけても、あなたが辛いだけでしょ?」なんて何度も言い聞かせられたら、「ハイ…」と言わざるを得ない状態に持っていける。

(実際、透析患者などに対しての、そういう事件があったよね)

 

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別ブログで、トランスジェンダーと差別の話を書きました。

 

 

別の問題じゃんはてなマーク

と思われるかも知れませんが、結構リンクしてくる話なんですよ。

 

人工的に性別を変える、人体を改造する、ということは、自己同一性の話になります。

自分自身を、自分の感じる理想形に改造する、としても、その極端に改造された身体とそこに付属する精神は、はたして自分自身なのか?

 

それが、男性などの子供を産めない人にも出産の機会平等を、なんて話に発展すると、これは臓器移植や精子・卵子の売買、人体売買の話にもつながってくる。

 

で、ね。

それ、本当に、本心から、産めない人やトランスジェンダーの人が望んでいることなのだろうか…?

という疑問が、どうしても浮かんでしまうんですよ。

 

ジェンダーフリーの考え方って、そもそも「性別で社会的役割を決めつけないようにしよう」という意味だったんですよね。

男性が、社会的に見て女性的と言われる文化・社会的役割をこなしても良いし、その逆だって良いし、その人がその人らしくいられる文化・社会的役割に付ければいいよね、という話だったはずなんですよ。

それがなぜか、

「女性的外見をした男性は、完全な女性として扱わなければ差別だ!」(逆もしかり)

という話にすり替わっている…。

 

子宮移植の話も、もとは子宮を持たずに生まれた女性に、女性の親族の子宮を生体間移植して出産してもらおう、という技術なのですが、これ、女性だからという理由で、なぜ自然にできない妊娠・出産を、命の危険を伴う人体改造をしてまでやらなければならないのか? という疑問になるんですよ。

 

ここには「女性だから、子どもを産ま(せ)なければいけない」という強迫観念があるんじゃないだろうか?

そして、本人が「そうして欲しい」と言ったとしても、本当に本人が望んでいることなのか、社会的圧力にいわばマインドコントロールされて「そうしなければいけない」と思い込んでいることなのか、その区別はつくのか?

という疑問しか浮かばないんですよ。

 

つまり、これらを合わせると、

女性とは、髪が長くて化粧をしてスカートをはいた、出産のできる身体でなければならないのだ!

という「決めつけ」に、社会の広い範囲で囚われているんじゃないのか…???という恐怖を感じてしまうのですよ。

 

そこには、ジェンダーフリーやその人らしさをそのまま認める考え方は、影も形も無い、「テンプレートから外れる者を許さない思想」すら感じるんですよね。

 

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自由意志で性別を変えられる、という考え方は、現実に生きている身体の否定ですよね。

身体は単なる入れ物で、精神こそが人間の本体、と思っているのかも知れませんが、身体という物理的制約から離脱してしまったら、もう生き物ではない、ですよ。

どんなにメタバースが発展したとしても、身体を取り巻く現実の制約を超越した自由意志や自己決定なんて、ナンセンスでしょう。

 

更に、生体間臓器移植や代理出産の道を開いてしまうのは、障害者や貧困女性を「臓器として売買する道」に容易につながる危険があるんですよ。

 

ちゃんとそこまで考えてから、「自由意志」を述べて欲しい、と強く願っておる次第です。

 

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