食というのは生活の基礎で、栄養や熱量を摂取するために不可欠なものである。雑食動物として、人間は肉を食事にするのも基本的なことだと考えられます。しかし、今まで普段食べている肉や魚はどう思うか?肉とは農場の動物から精肉に切り分けているもののを知らない世界はいないですね。これらの家畜や食用にする動物を経済動物と言います。みんなは豚肉や牛肉を食べるのは普通だと思いますが、それら経済動物の命を深く考えたことはありませんか?一生は肉にされるために育てきて当たり前なことに見えるが、同時に私たちは命を奪うことで生きているから、これらの命はそれほど重要ではないということなのでしょうか。
一つ例を挙げると、人々は犬や猫をかわいがってペットとして飼って育ちますが、ペットを食べるのことに反対を持つ人が多いでしょう。なぜかというと、「ペット」だから感情や気持ちを込めていて、肉にされるために育ってきた訳じゃないという点があります。でもその一方、経済動物には感情移入してはいけないのですか?尊敬する価値がないから、こうして命を殺して食肉になるのは当たり前のことで疑問がないのですか?
この作品では経済動物と命の大切さのテーマを中心にして描かれて、主人公である八軒は都会の札幌で育てられて、同級生との競争に耐えず内部進学をやめて北海道の農業高校まで逃げてきました。酪農業について何も知らない八軒は周りに農家の子に囲まれる学習環境では目立つような存在になって、他人とは違う価値観によって人が集まってきました。「銀の匙」という作品は八軒が農業高校で色んな人やことに出会う物語であります。
そして、授業の実習で豚の世話をしてもらった八軒は子豚に情が移ってしまいました。それ以来八軒は肉を食べることができるかを悩む時期があって、出荷まで答えが出ないが、それでも最後は自分が飼った豚一頭の肉を丸ごと買って、ベーコンを作ったりみんなに食べさせたりしました。
今の世間では、食べられるか食べられないかという議論についてそれぞれの動物の役割と社会との作用で決めるイメージがある気がします。ペットや動物園の中の動物などは生物多様性を保ったり心をいやしたり育ってきていますから、その信頼関係が築いた上で自分の飼っていた動物を殺したり食べるのが嫌がって、または人道的ではないと思われています。
一方、畜産で育てた家畜は生まれてから肉にされる運命に縛られているから、逆に経済動物を殺さずペットのように飼うのは本来の目的とは大きく離れていると思われます。しかし、ペットを大切にするように、畜産は時間や手前を込めて上等な肉になるように一生懸命育って、可愛がったり名前さえ付けたりする飼い主もたくさんいます。作品では八軒が自分自分と繋がっているから「殺すのは可哀想」という発想がありました。出荷の時はしんどい思いがあって、切なくなりました。もちろん私たちは農家の子でもなく家畜を飼育する経験もないですから、八軒と同じような気持ちになるのかわかりませんが、慣れ親しんだ生き物に対してお別れをするとそういう気持ちを切り捨てるのが難しいでしょう。また、国によってどの動物を食べてもよい法律も違います。スイスでは犬や猫などのコンパニオンアニマルとして断定される動物を食用禁止がないようです。オーストラリアではあまり見かけない馬肉やウサギ肉も一般的に販売されています。アジア国でも、特に中国や韓国では犬を食用として繫殖や捕獲をしているらしいです。
では、どうして豚や鶏などの家畜を殺して食べるのは平気で、ペットだとそうしてはいけないか?ペット用でなければ肉にされてもいいのか?それは愛が足りないから食べられるのが許されますか?もし家畜に情を移ったらペットとでも呼べますか?作品では「愛の形の違い」という理由がありました。要するに、その動物は何のために育っているか考えると、その動物を肉用にするのが受け入れるか簡単にわかるようになる。特に農家にとってペットでも家畜でも感情を入れるのおかしくないことです。酪農家は牛乳を搾るために牛を飼って、牛泥棒を防ぐため飼っている番犬でもそれぞれの役割があります。大事なのは、どんな目的で、どんな理由で飼っているのかわかるのなら、どの動物が殺されて食べられるか区別ができます。
つまり、感情の差や有無ではなく、元々育つ目的や理由が違うから、殺せるか殺せないかという基準に線引きを定義して、その違いが分けられるのではないでしょうか。作中八軒は「生き物を殺して食べるなんてこんなもんよっと達観にすれば楽でいられるが嫌だ」という点をあげて、確かに家畜は食用の目的として繫殖し飼育されて、いままで通りに肉を食事にするのは特に問題ないですが、家畜も尊いべく価値があります。
そして、食べれるか食べれないかという基準を決めるもうーつの要素は立場だと思います。豚肉は生きた豚を殺して切り込むしか得られないものという事実を知らない人はほとんどいないが、もしそれは自分で育てた動物を捌いたり食べたりすることになると拒む人が多いのではないかと、私はそう思っています。肉にされるのはひどいかどうかというのも価値観によって意見が違うことになると思います。都会に住んでいる人たちはペット以外の動物を生で見る機会が少なくて、ドキュメントや動物園以外に触れるのはもう牛肉やもも肉などの食肉の商品がスーパーで販売されている形なので、動物への印象にも影響されるでしょう。
そもそも私たちは豚や牛などの動物に対してすでに「家畜」という概念があるからこそ、目の前の肉を素直に受け止めて食べる。家畜は「肉になるため育てられている」という考えに縛られて、家畜というカテゴリー以外の動物なら食べてはいけないと思われる現状があります。
そして、農家の人たちももちろん、自分の飼っている家畜が市場に出荷されたり事故の時は処分されたりして肉用になるのを見慣れているから普通に認めました。しかし、私たち消費者としては家畜の命を軽薄してはいけないと思います。動物に対する敬意を表すことは家畜が生きた価値と象徴となると思います。例え扱い方、役割や種族が違っても、動物の命を同等なものに見るのが大事だと思います。
八軒のように「動物を食べるのはこんなものよ」と自分に言ったら楽になれるかもしれませんが、人命や人権を主張している現代社会では命の大切さと重さはもう一度考えてつかまりやり直すのは大事です。ペットの命を尊重するというのならば、種族によって見上げたり見下したりすることではなく、同じく動物として、「食わせてもらってる」ことに感謝をしなければいけないと思います。
人間は叡智がある故に、他の動物にはない文明やテクノロジーを使ってよく他の種類と比べて自分の方が優秀な生き物だと思うかもしれないが、動物がなければ私たちもここまで生きることができないと思います。ですので、私たちはこうして肉を買って食べられるのも農家の努力と動物のおかげです。肉が食べられるのを常に感謝の気持ちを持って、命をいただくことをそれぞれの動物を尊びます。他の動植物から栄養を摂取し、動植物も生活の一部になって私たちは動物とお互い協力したり学んだりして、相互作用することで繁栄や恩恵はもたらすとでも言えるでしょう。
この作品を通して、他にも日本の農業の経営について大量説明しました。動物扱いなので、ほぼ年中無休の職業で、毎日決まった時にエサをやったり掃除したりします。特に乳牛は特定の時間にしか牛乳を搾らないと乳牛の健康や調子に影響があることです。また、一日搾りすぎると細菌の感染によって乳房炎になってしまいます。他にも馬は骨折などちょっとだけケガをしたら体調が悪くなって安楽死させられてしまうことが多いです。農家によって動物の扱い方や処分の基準も違いますが、慣れ親しんだ動物が肉にされるのをみるのも切ない気持ちがあります。そして、動物を扱って経営する企業ですから、その伴う事故もいつ起こるか予測ができなくて、かなりリスクの高いビジネスです。例えば、鶏舎を経営する農家はもし鳥インフルエンザが起こった場合、鶏を全部処分してしまう他に、家畜がなくなるせいで借金や従業員の仕事がなくなるなどの問題も発生します。収入や生産量を維持するため、万が一動物が病気になったりケガをしりすれば処分されて、食肉になる可能性が高くて、元々の目的と違って肉にされてしまうのはどの農家にも立ち向かわなければいけない切ないことです。そのような原因で農家も生産量が大きく下げて経済的な問題になって、倒産する可能も増えていくと思われます。
都市に住んでいる私は普段離農ということに関心がないですが、マンガでは駒場牧場は借金が返せなくなるせいで倒産してしまうことから、代々受け継いできた偉業をやめてしまうのはどれだけ辛い思いと決断であることが深く印象的でした。アニメのこのシーンを見て、声優さんの声と音楽に悲しい気持ちをあおりました。
運営するのに精一杯なのに、買取価格から餌代や経費を抜くと実際もらえるお金はほんの少しなので、とても厳しい業界とでも言えるでしょう。ですので私たちは肉を食べながら、農家にも感謝するべきだと思います。現実ではあまり体験できないことや農業の経営から、きっと何かを掴めると思いますので、是非読んでみてください。








