ある訃報の記事を読んで。



(艶やかな髪をなびかせ、瞳の輝きが美しい、長身の、ピンヒールを履いた、締まるとこしまったバディなコ。その上成績もいいとくる…)



私「すごいなぁ…」


母「?どしたん?」

私「ん?いやあ、みんなすごいなぁーと思って…」

母「!?あ、あんただってすごいとこあるわよ!いくらでもあるわよ!!」

私「(お?なんかおもろいぞ(笑)じゃあ10個言ってみて?すたーと!」

母「、、、ば、、、、ばあちゃんを喜ばせられる!」

私「ほい、いっこ。次ー」

母「、…ば、ばあちゃんの話を聞いて喜ばせられる……………(沈黙)」


指折り数えて2つ。内容的には1つ(笑)


私「10ないやん(笑)」

母「でも誰にでもできることやない」

私「ありがと(✿︎´ ꒳ ` )♡︎」




冒頭の訃報は競走馬の「ウォッカ」のことです。

本日、出先でかなりショックを受けた。20代の頃に初めて出会った「頼むからこの人と関わりたくない」と願った人がすぐそばに居た。

地元が同じなことは知って居たし、行動範囲が被らないようにしてここ3年は無事で居たのに。よりによって定期的に行くところ。

幸い向こうは気づかなかったみたいだけど、前よりひどく険しい顔をしてケータイに集中して居た。目につかないところにそっと逃げたら、気が緩んだのか過呼吸気味、震える、めまい…などなど。

10年経って気づく。


「あの人は私のトラウマだったのか!!」



その人はよく気に入らない人物についての呪詛を声に出していた。たまに周りにも声を合わせて「その人物が自分たちの手を下さずに寿命を迎えること」を強要して居た。それが怖くて私はかなり具合が悪くなった。

呪詛の言葉は意味を知って居るから言霊みたいに周りを染める(外国語でも意味を訳せなくても嫌な意味なことはなんとなくわかる)。


思い出して、吐き気がする。


「もし、向こうに見つかって、“気づいて居ながら声をかけなかった”…なんて、なん癖つけられたらどうしよう」


「こっちから特攻覚悟で行けば傷は浅くすむかな。しんどいのひどくないかな」


「…やだ、死にたくないし、怪我もやだ!」


と、結果完全接触を避ける。お陰で全く気づかれずに済んで終わった。


こうして自分を尊重できたこと。大事にできたことに、年月を経て変わることのできた自分を感じた。でも、やっぱりどこかで覚えてるのね。


こんなのばっかあるの、は私の感受性の問題だと思う。地域の環境要因とか問われたら、そこまで荒れてない田舎だと思う。HPSの自覚もある。



ともかく!







あー、、、、避けきれて、自分を守れてよかった!!!!!!


モスクが銃撃されたというニュースを見てショックを受けた。


「ホモ・サピエンスは想像することができたからこそ、団結し希望を持って生きながらえる事ができた」


って言うけど、想像できる神っていう存在(宗教)から争いが起きる。生き延びる力が争いの火種になる。薬を過剰摂取すると毒になる。

人を生かしてきた神が、人の命を散らすきっかけになる。


想像している神が人の願いや想いから生まれるなら…


争いを望む神も…いるか。

居るのだな。神も創作物で、一種の発明だから。



でも、信仰の理由でもモスクを襲うとか、納得できる理由が私には無い。ただ辛い。私から見てなんの罪も無い、ただ信じる道を誠実に向き合っててきた人たち。


でも、攻撃してきた側も信仰と誠実に向き合い、成し遂げたことになる。


信仰の中の罪ってなんだろう?自分の信条次第で当たり前は変わる。人間の発明なら、発明者の都合のいい作品がごまんとあるわけだ。お料理みたいに。


生かす糧が、他者には…攻撃性のある存在。




思考の中、トンネルの出口は見えない。