うーもう我慢できん。

 日曜も天気いいらしい。こんな日に家にいたら精神に何かマイナスの作用が働きそう。廻り目平の天国のような青い空と木々の緑が目に浮かぶ。ということでいざ小川山ボルダリングへ。

 何か日本の街って密度が濃いっていうか息が詰まりそう。どこ行っても人人人…広告広告広告…建物建物建物…。ごった煮状態。ブレードランナー的世界ならまだ絵になってサマになるのに、もう外に出ても気が休まることがないねえ。引きこもるかバーチャルに逃げるしかないのかねえ。か、もしくはもう仕事人間になるよう自己催眠かけるとか。たまの連休は渋滞、混雑でくたくたの日本人は一体いつどこで心を開放して新たな英気を養えばいいのかね。そんなのいらないくらいタフなんだろうね、日本人は。その点自分は弱いなあ。というか密所恐怖症なんじゃないかと思うくらい、どどーんと広いところに行きたくなる。それも生易しいもんじゃなくて地平線が見えるくらいなところへ。その点、長野や山梨は北海道とまではいかないけど何か広々していていいねえ。

 アスファルトから脱出したい森の中に入りたい、草のベッドでまどろみたい、という欲求が怒涛のように体の中から湧いて出てくる。オリの中で生活している動物の気持ちが分かるような気がしてくる。野生に帰りたい。元いた場所に戻りたい。人類が文明と自然回帰のスパイラルで文明を発展させてきたという歴史をみんなもっと認識すべきなんじゃないかな。

 まあでも癒されに小川山に行くと、すごく空しいという面も一方である。自分は何をするにしても何か「右肩上がり」にやらないと気がすまないのだ。追い込んで、悩んで、追求して、ようやく達成して、という充実感を抱きながら帰路につく時、心地よい疲労感とともに心からの幸せを感じる。こうなって初めて自分の心は癒される。

 まあそんな矛盾した気持ちをいつものように抱きながら石と戯れる。意気込みは多少あるものの、やはりブランクが長いせいか指力が全然ない。第一関節が反っちゃってる。多少、懸垂なんかして引きつけ力はつけたつもりだが、肝心の指先で力が抜けてしまっては意味がない。ああでも、指腱鍛えすぎで故障して以来、恐くてトレーニング再開できておらず、もどかしいかぎりだ。

 攀果は毎度のようにゼロ。でも本当に暗くなるまで精一杯やった。悔いはない。

 おや?ゲートが閉まるというアナウンスがまた復活したのか?まあ、ゲートの外に車止めている自分には関係ないけど。またたとえゲート内に駐車してても延長料金払っても暗くなるまでいつも残っているので、どのみち関係ない。6時をいくらか過ぎて受付済ませようとすると金峰山荘の人が、「6時に間に合わないでやんの」というような顔をする方がいるが、この俺の気持ち分かるかな?俺は1日2,000円払っても3,000円払ってもここに来たいと思う。そのくらいここは素晴らしく価値ある場所だ。たかだか100円多く払うことなど、数十分多くここにいられることに比べれば本当につまらないことだ。

 帰路は途中の道の駅の芝生で好物のチキンラーメンを作る。芝生の上で星空の下でボルダーマット敷いて食べるチキンラーメンはおいしいねえ。そしてしばらく芝生の上で夜空を見上げながら仮眠。この星空のずっとずっと遠い所には、自分の想像できない天体現象が起きているんだろうなあ。まあ宇宙の果ては無いにしても、いまだ宇宙物理学が解明できないからくりがそこにはあるんだろうなあ、などと物理好きの自分は考えてしまう。

 21時過ぎたらもう甲府市内は渋滞も無くすいすいだった。

 ところで帰りすがらのラジオでニッポン放送「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」という番組を聴いた。不登校とか校則とか、さまざまな悩みを持つ10代の学生と電話で直接話し、アドバイスを与えるという内容のものであったが、大人が聞いても十分、ためになる内容であった。言葉のひとつひとつが借り物でなく、自身がいろいろ悩み考えて獲得した人生訓なんだというものが非常に強く伝わってくる。J‐POP、J‐HIPHOPなどで歌われる浮ついた、どこかで聞いたことあるような借り物の歌詞とは違い、心の奥まで響く真剣さと確かさを感じた。


「現代では不安をなくすことはできない。安心を手に入れるしかない」

「学校とは勉強するところという以上に自分を成長させるところ」

「実現が難しいと思えるようなことに挑戦する、戦うことで自分が成長する」

「反抗と主張は違う」

「お前が俺から逃げなかったから俺もお前から逃げない」

「不登校になる前に、戦ってみろ。それでも変わらないなら俺は他の大人のように頭ごなしに不登校をだめだとは言わない。」

 

 などなど、何か自分の心に響くものがあった。 

 番組のサイトを見たらこれが初回の放送らしい。今後、定期的に番組として放送されるならぜひとも頑張ってほしいものだ。

 

 普段、家にいるばかり、町にいるばかりではどうもものの見方というものがワンパターンになりがちである。まあ、読書が面白いので充実感はあるのだが、あまり活字ばかりというのも大脳偏重、頭脳偏重になってしまってどうも、自然体としての人間のバランスに欠けてくる。大脳皮質左脳から右脳、そして大脳から辺縁系、そして頭脳から身体、もしくは頭脳から義家氏のようなハート、というシフトチェンジが、活字中心、頭脳中心、都市中心のワンパターンで解決できない問題の解法のヒントを与えてくれるような気がする。

 

 カネがない。遠出するだけのガソリン代が足りない。しかし湿度の低い何と爽やかな晴天だこと!やはり俺は家の中でおとなしくできないような身体構造になっている。

 ということでカネがかからない外遊びはないかってことでバイクトライアルをやってみようと思うに至った。自分の自転車がMTBと呼べる代物かどうかは定かではないが、要はモノがなきゃ遊べないっていう発想を捨てて、無いなら無いなりに工夫してくっていう遊びの基本に立ち返ろうというわけである。

 さて意気揚々と家を飛び出してみたものの、さてどこで練習したらよいか?街中じゃあ人目がもろ気になるし。しかもおもいっきり下手糞なところを人目にさらしたくない気持ちもあるので、できれば人目につかないところで最初はひっそりとやりたいものだ。でも街中に住んでて近場でそんなところそうそうあるもんじゃない。スケボーと違って自転車なんだからどこでもできるじゃんという当初の考えとは裏腹に、異様に人目を気にしてしまう。

 1時間弱走ったろうか?うーん、素敵な公園、発見!自然石を切り出したオブジェがたくさん並んでてまさにトライアル天国!一画に「MTB進入禁止」なんて看板出されちゃってることから、やはりその筋の人たちも目をつけてたんだろう。

 それにしても、ここの自然石は幅こそないが高さは十分にあり、ぱっと見には、こんなところにボルダーが!などと見紛う場かりの代物だ。ああでも1mそこそこの幅なので抱っこムーブというか「やしの木名人」登りができちゃって超簡単になってしまう。限定すれば何とか登れないこともないが、わざわざ…という感じである。

 やはりトライアルを練習することにしよう。でも…

 スタンディングスティル…すぐ倒れる

 フロントリフト…すぐ前輪落ちる

 バック…全然後ろ行かん

 ホッピング…後輪上がらん

 ダニエルホップ、ジャックナイフ…夢のまた夢

 てな具合で結果は完敗。

 うー、予習したサイトでは何か軽々やってるのに基本動作もままならないとは…。書いてあるテクニックの通り実行してるんだけどなー。

 できないことに対しては結構意地になってしまうとこがあるものの、もう少しお勉強して出直した方が時間の無駄がなくていいと思うようになり、約2時間余の初トライアル練習を終えることにした。

 まあでもカネはなくてもモノはなくても結構、発想次第ではいろいろ楽しいことって見つかるんだなあというのが近頃感じるところである。

 


 



 何か「しでかしてしまった」後、いささか心に清らかさが欠ける人たちは自己弁護をしてさらに被害者の心を逆撫でしようとするものだが、そのような言い訳の数々をピン芸人風に斬ってみる(波田陽句さんが最近エンタに出てこないんで、そういう言い方が古臭く感じられるが…)。

●泥酔事故を起こした福岡市職員。逃げた理由は?

「福岡市職員であることがばれると思って」

→市に迷惑かかると気にするような責任感あるやつなら最初から飲酒運転なんてしないって。

●子殺しの親の言い訳

「子供を殺して、あとで自分も死のうと思った」

→じゃあ、今すぐ死んで。それができないならそんなこと口が裂けても言うな。

●暴言の撤回(例えば東横インの社長)

「誤解を与えて申し訳ありません」

→じゃあ正解って何?

●カネを貸した奴から

「俺、忘れっぽいから貸したってこと覚えといてね」

→では何かい?もしカネが返されなかったら貸した側にも少なからず責任があるってことかい?自分が100%覚えてろ

●森林伐採という環境破壊をして土建業に貢献しようとする人

「江戸時代に比べて森林面積は増えている。人間が環境への手助けをしているのだ。だから伐採しても元の森林面積よりは十分広い」

→それでは白神山地のブナ林と、都会のビルの敷地内の植え込みが同じ緑とでも言うのかい?関東近辺のスギ、ヒノキ林に入ったことあるのかい?壊しているのは自然林がもつ多様な生態系だ。(花粉症というカウンターを食らっているが。)

●ホリエモン

「お騒がせしてすいません」

→騒がせたことじゃなくてやったことについて謝れ。もし悪いと思っていないなら保釈金払わず正々堂々と潔白を主張しろ。

●第31吉進丸乗組員の一人(ロシアに銃撃された事件)

「とりあえずすいません(と言ったあとクスッと笑う)」

→うーん、正直でよろしい。少なくとも隣の人のように「お騒がせしてすいません」って言うよりは。(この事件というか問題はもっと「奥のほう」にいるダークな人たちを引っ張り出さないと意味がない)

 いつものように窓を開けっぱなしにして寝ていたら、朝、目が覚めて寒かった。

 寒いなんて感じたの久しぶりだ。(でも本屋のきき過ぎる冷房は寒かったから久しぶりじゃないか)

 おまけに一日中、雨、雨、雨…

 9月上旬って言ゃあ残暑厳しくかえって8月なんかよりずっと暑いんじゃないかと例年なら思えちゃうんだけど、どうしたんだろうねえ。

 待てよ、今年は梅雨がなかなか明けきらず夏に入ったのって結構遅かったよなあ。夏の前後に天気が悪くなるってのは何かしら関係してるんだろうか?なあんて思えてくる。

 地球温暖化って地球全体で暑くなってくことじゃなかったっけ?なんていう素人発想が本当に現実化したら、本当に地球はやばい状況に来てるといえるかもしれない。まあ今はその準備段階っていうことで、北半球南方洋での海温上昇→上昇気流→高層偏西風波動蛇行に影響→局所的にトラフが南下→局所的に気温低下、っていうことになってるんじゃなかろうかと素人なりに推理してみる。昨冬は本当に日本海側の豪雪もひどかったし。去年だったか忘れたけどドイツで冬、すごい豪雪があったけど、それが今、日本で起きてるんじゃなかろうか?

 地球温暖化だから太平洋高気圧の暖気は非常に強く過去よりもパワーアップしてるはずなんだけど、大陸からの寒気も今年は強くってお互いタメ張ってるって感じ。そう言やあ今年は雷さんいっぱい落っこってたっけ。

 ということで9月は南北の高気圧がガチンコして前線が居座って秋雨前線、長雨の前倒し。そしてそんなこんなで残暑らしい残暑もなく秋到来なんてことになるんじゃないか、というのが私の天気下駄占いです。

 でもほんと最近の気候って平年並みということがないねえ。気象予報士さんも統計的確率が外れるもんだから大変だろうねえ。平年並みが外れることは確かだけどどっちに転ぶかってのが予測つかないんだよね。

 でも、個人的には何となくお天気さんの言いたいことが分かってきたような気にさせられた日だった。

 新しくブログを開設することにした。

 といっても2ndブログだ。

 それまで自分で開設していたHPにない気軽さ自由さを求めて1stのほうのブログを始めたわけだが、やはり自分にはブログが合っているみたいだ。まあ、何かの分野の権威でもなければあまり公式に意見を堂々と発表するということにどうしても身の丈以上のものを要求されるようで、やはり素人観点というある種の逃げがきくブログのほうが書きやすいから、というのが私がブログを好む理由だ。

 それにしても、考えすぎかもしれないがネットでつながるという電脳化によって自我が拡大するのではないのだろうかと、HPやブログをやっていて思う時がある。google検索というinput面での認識手段の進歩についてはもちろんだが、ブログなどで意見を公に発表するというoutput面における手段の進歩が、非常に自分の認識能力を向上させているという実感を感じている。文字で書いてみることにより自分の認識における矛盾点が明らかになったり、普段から正確に様々な事象について記憶、理解、把握しようとしたりという作用が起こるのだ。

 たぶん一人でノートに書くだけだったらブログほどの内的向上はありえないと思う。第三者、それも日本語を使う何万人もの人間が読む可能性があると考えると、実際のアクセス数は少なくても、その可能性があると考えただけで、書き手主体の視点が高いところに引き上げられるような気がするのだ。

 虚栄心がレベルの高い感情なのか低い感情なのかはさておくとしても、ひょっとしたら自分の考えていることが、社会全体に多少なりとも影響を与えられるのではないかと考えると、その可能性の高低は別としても、様々なことに対するモチベーションを向上させる手段として有効なのではないかと思う。

 というような考えでよそのところでブログを続けていたのだが、回を重ねるごとに何かだんだんテーマが大きくなってきてしまい、内容もだんだんディープなものになってきて、当然、アクセス数も上がってきて、次は何かもっといいもん書かなきゃというプレッシャーになってきてしまったのである。ブログを始めた頃はお気楽に自由に書いていていろいろな発見があったのだが、うかつにものが書けないとなると「日々の気づき」の向上というブログのメリットが失われてくるのだ。

 自分が読みたいと思うようなブログを自分で書くというのが私のスタイルである。今日何時に起きて、買い物に行って、食事をして…などという他人の文章を自分では読みたいとは思わないので、当然、読んでためになる内容、読まれた方の日常に何かのプラスをもたらす内容というものを心掛けるようにしていた。というかそれでなければブログをわざわざ書こうとは自分では思わない。

 でもあんまり身の丈以上の文をしょっちゅう書けるわけもなく、もう少しお気楽に書いてみよう、と思ったのがこのブログ開設のきっかけである。

 日々是好日、五観の餉などの禅語にみられるように、この世に取るに足りないことはないと思う。それを見過ごすか、つまらないといって通り過ぎるか、はたまた微分的視点で注意深く観察するか、こちらがわの認識如何で活かすことも殺すこともできるのだ。ひとつの大きなテーマにかかりきるのもよいが、もう少し目を遊ばせて見るのも視野の幅が広がっていいかなと思う。