非常に簡略化して言うと、フランス人の場合、プロであろうが学生であろうが、自分の中に実際の演奏と、その演奏を生み出す身体の動きの連動の明確なイメージがあります。

 

 よって、演奏中にそのイメージと進行中の身体の動きにズレを察知したら、その延長線上で破綻が生じることを予期し、テンポを緩めるなりフレーズを切り替えるなりして、事故を未然に防ぐことができるのです。

 

 一方、日本人は幼少の頃から、メトロームや指揮者、他の演奏者(これも結局はメトロノームに導かれている)に合わせること、また、楽譜に書かれた記号としての音符を音に変換することが「音楽」であるとして訓練を受けているので、自分の中に、実際の音や音楽に先行したイメージや、それを生み出す時の身体の動きのイメージがありません。そもそも、それをイメージするようにも訓練されていません。つまり、すべてが他律的なのです。

 

 よって、自分の中に確固たる拠り所(イメージ)が無く、ひたすら外部の基準に合わせようとするから、どうしても身体の動きが硬くなる。身体が硬く柔軟性が無ければ、身体のコントロールのズレが吸収緩和されずそのまま演奏ミスとして音に反映されてしまう。

 さらに、規範となる自律的イメージが自分の中にないので、それと照らし合わせて今の自分がどんな状況にあるのか認識することができないため、自分がどこにいるのかさえ分からない。

 

 よって、予めミスを予見して対処法を講じることができない。だから、結果としてミスをしてしまう。

 目隠しをして車を運転して、事故を起こすようなものです。それが巧いと思われているようで、実は日本人は演奏ミスが多い理由です。

 

 よく日本人は、器用でテクニシャンだと言われますが、それは半分は大きな誤解、半分は皮肉で、テクニシャンはテクニシャンでも、ミスらないようにガチガチに身体を硬くし、安全運転のためにメゾフォルテで必死に指を速く動かすだけの、なんちゃってテクニシャンで極めて単線的。

 

 だから予め仕込まれた一つのパターンでしか演奏することができない。少しでもテンポや音程を揺らされようものなら、あっという間に崩壊する、ガラスのテクニシャンなのです。

 

 これは何かを思い出しませんか?

 そう、サッカーです。最近では、ようやく日本人選手の動きも改善されてワンタッチでゲームがだいぶ運ぶようになりましたが、南米やヨーロッパの選手が先に頭の中で思い描いたイメージ通りにボールを動かそうとしているのに対して、かつての日本人選手は蹴ったところのボール任せ、状況任せで、ボールをどう運びたいのか、身体をどう動かしたいのか、ボールを蹴る前の創造的なプレイメージに全くかけた選手ばかりでした。

 

 ここで本題が明らかになってきました。

 優れた演奏家、優れたサッカー選手(おそらくはアスリート全般)は、自分のパフォーマンス、そしてそのパフォーマンスを生み出す身体と神経回路の連動の鮮明で具体的なイメージを持っているのです。一方、月並みな演奏家やアスリートはそれに欠ける。

 

 そして一般的に言って、それは欧州人や南米人、なかんずくラテン系やユダヤ系の演奏家と日本人の演奏家の違いに当てはまります。その違いが、民族的・人種的なバックグラウンドの違いに由来するのか、文化的・教育制度的な違いに由来するのか、私には分かりませんが、「違い」が存在するのはたしかです。

 

 かく言う私の親友も、自らの才能には確固たる自信を抱いていますが、その彼をしてさえも、欧州人の能力のスタート地点の高さは認めざるを得ないと言わしめています。

 

 しかし、彼我の違いはあれども、彼らがその意識上において、または脳髄の中でどういうプロセスでパフォーマンスを出力しているかが分かっているからには、私たちもそれを参考にすればいいだけのことです。