視覚。
聴覚。
触覚。
嗅覚。
味覚。
あなたがこの感覚のうち、どれかを失わなければならないとするなら、どれを選びますか?
こんばんは。牛田もーです。
今夜の更新は、少し方向性を変えまして。
ちょっとした心理学ストーリーをお届けします。
◆ 五感の質屋
その言葉が、心に突き刺さった。
私には、一人娘がいる。
名前は、慶子。今年で10才になる。
妻をある病気で亡くしてから、私一人で育ててきた。
その娘が、突然にお腹をおさえて苦しみだした。
そのまま入院し、さまざまな検査が行われた。
その結果、伝えられた病名は、妻とまったく同じだった。
「ご存じ…だとは思いますが…」
医師は、妻の担当をしてくれた人物だ。
私にとって、二度目の告知だった。
「…この病気は非常に珍しい疾患です。発症から短期間で、全身の組織が慢性
的に壊死していきます」
言葉の一つ一つが、死刑宣告のように感じられる。
「…この病気は非常に珍しい疾患です。発症から短期間で、全身の組織が慢性的に壊死していきます」
言葉の一つ一つが、死刑宣告のようだった。
「…前にも申し上げました…わけですが…。現在、治療法は存在しません」
そう。そのセリフは、妻のときに、何度も聞いた。
まさか、娘も同じ病気にかかるとは。
しかし、あのころと事情はまったく変わらないのだろうか。
私は思わず聞いた。
「何とか…。何とか助けていただくことはできないでしょうか…?」
自分でも、それが無理だとは分かっていた。
すると医師は、こう話した。
「いえ、ただ…。以前より、この病気については研究が進んでいます。
そのため現代の医学では不可能でも、たとえば5年先…。もしくは10年先でしたら、治療方法が見つかっているかもしれません」
その言葉が、どれだけ信じられるのか。
それでも、私には希望のように感じられた。
「む、娘は…。それまで大丈夫です…よね?」
医師の反応が待ち遠しい。
しかし医師は、こう言った。
「非常に申し上げにくいのですが…」
医師はためらいながら、言葉を続ける。
「あと一年は持たないでしょう」
その言葉が、私の心に突き刺さった。
◆
私は病院を出て、街の中を歩いた。
大事な人間を、2回も失わなければいけないのか。
どんな方法でもいい。
どんな手段でもいい。
娘の命を、何より助けたい。
自分の命を引き替えにしたって構わない。
しかしもちろん、そう思っても何の意味もないだろう。
そのとき。
私が、その店に出会ったのは、必然だったのかもしれない。
「五感の質屋」
看板には、間違いなくそう書いてあった。
◆
意味が分からない。
ただ、その看板には、表現できない迫力があった。
私は気がつくと、その戸に手を掛けていた。
「いらっしゃいませ」
中には、およそ質屋とは似つかわしくない女がいた。
黒いドレスを着用し、黒いヒールを履いた、黒髪の女だった。
年齢は20代だろうか。
年の割には、落ちついた立ち振る舞いをしていた。
「質入れをお望みでございますか?」
私はその言葉を聞くと、ハッと我に返った。
「い、いや………。すみません。間違えたようです」
すると、彼女はこう言った。
「あら? お金はご入り用ではありませんか?」
「い、いや、必要ないよ」
金なんて。
金なんてあったって、何の意味もない。
私がほしいのは…。
そんな言葉を、あわてて飲み込む。
私はすぐにそこから立ち去ろうとした。
その瞬間だった。
「じゃあ、お金ではなく、誰かの命なら?」
彼女は突然、そんな言葉を発した。
その言葉に、私の動きが止まる。
「…は? 今、何て?」
「お渡しするのが、誰かの寿命なら? と申しました」
「ど、どういうこと…?」
私は思わず唾を飲み込む。
すると彼女は口を開いた。
「ですからこちらは、お金のかわりに、寿命をお渡しできる質屋でございます」
突然のことに状況が理解できない。
到底、ありえる話とは思えない。
しかし、彼女の言葉には、なんとも言いようのない迫力があった。
私は少しだけ、話を続けてみることにした。
「誰かの、寿命を延ばす?」
「その通りです」
「そのための代償は? 私の命なのか?」
「いえ…。感覚です」
「感覚? 感覚って何だ?」
彼女は笑いながら、言葉を続ける。
「あなたは、私のことが見えますか?」
「………!? み、見えるよ……? まさか幽霊とかじゃないだろ…?」
「あなたは私の声が聞こえますか?」
「………き、聞こえなかったら、話してない…よね…?」
「あなたは…」
「?」
彼女はそう言いながら、僕の頬をつねってきた。
「いだだだだだっ!」
「この痛みを感じますか?」
「なななな、何すんだ!? 感じるに決まってるだろ!?」
「では最後に、こちらをお食べください」
そして彼女は、小さなガムを取り出した。
「どうぞ?」
女の言葉には迫力がある。
私は、思わずそれを手に取った。
「お食べください?」
しかたなく、それを口に入れる。
「ん………」
「………」
「ん、んがががががっ!」
アンモニアとカブトムシが混ざったような味とニオイだった。
あわてて口からはき出す。
「なななな、何すんださっきから!」
すると彼女は、にこやかに口を開いた。
「このように人には、『五感』がございます。
目 … 視覚
耳 … 聴覚
肌 … 触覚
鼻 … 嗅覚
舌 … 味覚
の5つのことを言います。
すなわちあなたは、その5つとも、持っていらっしゃるわけです」
「………だ、だから何なんだよ!?」
「その『五感』を質入れするかわりに、あなたの望む方を、延命させていただくわけでございます」
「………!?」
言葉の意味が、よく飲み込めない。
「ご、五感を、し、質入れ!?」
「その通りです」
「………って、ナニか!? じゃあたとえば視覚を質に入れたら、目玉を取られてしまうとか!?」
「そんなことはいたしません」
「じゃ、じゃあ…」
「ただ、あなたの感覚そのものの働きを奪うことになります」
「………」
「それが嗅覚なら、今後一生にわたって、ニオイを感じることはできません。味覚ならば、味を感じることはできません。視覚や聴覚に触覚、すべて同様
となります」
「………そ、そんなことが、可能に………」
「可能でございます。あなたから奪うのは、『意志』です。見たい、聞きたい、味わいたい…。そんな意志を、いただくことになります。その結果、あな
たはその感覚を失ってしまうわけです」
「………」
にわかには信じがたい。
しかしその言葉の一つ一つには、何とも言えない真実味があった。
「…一つの感覚ごとに、命と引き替えにできる、と…?」
「はい。そのいただきました意志から、我々の取り分をいただきまして、残りを望む方の寿命、5年分に当てさせていただきます」
「…た、たった5年!? 短くないか!?」
「長く感じるか短く感じるかは、人それぞれですが…」
「…となると、全部の感覚を質入れしたら、25年分、寿命を延ばせるわけか…」
すると女は、静かに首を振った。
「それはできません。と申しますか、オススメいたしません」
「え?」
「お客様は、ヘロンの実験をご存じですか?」
「ヘ、ヘロン?」
「心理学者ヘロンは、被験者の視覚をふさぎ、無意味な機械音だけが流れる部屋に寝かせました。
また同時に、被験者の体に触覚をおさえるカバーをつけました。
すなわち、五感のほとんどを遮断した状態にしたのです」
「………そ、そうしたら………?」
「多くの被験者が、数時間で無意味なうめき声をあげるようになりました。同時に、幻聴や幻覚が生じた人間もいたようです。
結果、最大でも『48時間以上もった』人間は『いませんでした』」
「………!!」
「全部の感覚を完全に失うことは、それだけ危険なのです。私もそこまで危ない橋を渡りたくありませんので、質入れは最大でも4つの感覚まで。すなわ
ち延ばせるのは…」
「最長でも20年か…」
「その通りです」
「………」
ここで、私は聞いてみたいことがあった。
「ちなみに、6つめの感覚は、質入れできるのか?」
「6つめ、というと…?」
「第六感とか」
すると、彼女は答えた。
「10円でございます」
なぜ、突然に円換算。
さらになぜ、そんなに安いのか。
「5感に比べたら、クズでございます」
そんなにも。
「さて、どうされますか?」
彼女はあらためて聞く。
私は、考えた。
もしこの話が本当なら、娘の命をそれだけ延ばしてやることができる。
最長でも20年。
今は10才だから、30才までだ。
でも、もちろん人の一生としては、やはり短いだろう。
それに私が4つもの感覚を失ったら、これから私はどうやって働けばいいのか。妻がいない今、娘の家族は私だけだ。
私が働けなくなってしまったら、結局は娘だって生きていくことはできないだろう。
この取引が真実だとしても、何の意味があるというのだろう。
「………!!」
しかし、そこで私は、医師の言葉を思い出した。
たとえ5年だけだとしても、延命そのものができるのなら。
あるいはその間に、治療法が見つかるかもしれない。
そうすれば、娘は死ななくて済むのだ。
私の方も、感覚を一つか二つ失うくらいだったら、生活や仕事にも、そんなに致命的ではないだろう。
だったら…。
「どうされますか?」
女は、あらためて問いかける。
私は答えた。
「では、一つの感覚のかわりに、娘の寿命を5年、延ばしてほしい」
彼女は微笑む。
「その言葉、間違いありませんね?」
「間違いはない」
「承りました。では、どの感覚を質入れしてくださいますか?」
私は、考えた。
視覚。聴覚。触覚。嗅覚。味覚。
このうち、最初に失うなら、どれか。
論理的に考えれば、答えは一つしかないだろう。
(つづく)
最初に失う感覚とは?
次号をお待ち下さい!