気が向かない方は戻ることをオススメします。
4月28日 (木) / 冒険23日目
さて、今日はポーランドに来た最大の理由である
「アウシュビッツ=ビルケナウ・ミュージアム/Auschwitz=Birkenau Museum」へ向かいます。
悩みに悩んだポーランドですがやっぱり見ておきたい。という事であえてベルリンから入れ込みました。
クラクフからはバスで約1時間半
ちなみに...
「アウシュビッツ」「ビルケナウ」はドイツ語で
ポーランド語では「オシフィエンチム」「ブジェジンカ」
ですのでバスの行き先は
「オシフィエンチム/Oswięncim」です。
10:35 クラクフ発のバスでいい感じに車酔いし12:00ぐらいに到着。
今回、博物館を回るにあたっては
公認のガイドで唯一日本人である中谷さんに事前に連絡を入れ14:00から2-3時間のガイドツアーで回ることにしてあります。
まだ2時間程あるので併設のレストラン(食堂)でランチにする事に。
ポークカツレツ=トンカツ
ですね。
ゆっくりメシを食い、館内は写真NGという情報があったのでせめて周りだけでも。と思い入場棟を↓
予定の集合時間に入場棟の前に行ったのですが、
それらしき人がいなっかたのでおもいっきて中谷さんに電話をかけると
入場棟の前にあるベンチに参加者であろう方と腰をかけていました。
まずは挨拶をして館内へ。
他の参加者は女性2人組が2組で自分を入れ計5人。
ガイド料はグループで250złなので1人50złを博物館に払いました。
ちょっと緊張のガイドツアーが開始。
すると、アウシュビッツに踏み入れた瞬間に
「今はもう写真Okですのでどうぞ撮ってください。」
と言う事でした。どうやら緩和されたようです。
まず入ると
1回は見たことあると思います↓
ドイツ語で「ARBEIT MATCH FREI」
訳すと「働けば自由になる」です。
これはドイツ・ミュンヘンにあるダッハウ強制収容所にあったものをこっちにも使い、
連れてこられた人々にありえもしない希望を持たせるわけです。
各所にこういったイラストなどが説明と共に設置されています。
そして、連れて来られた人々は囚人の様な扱いをされ
いわゆる囚人服を着させられます。
門の向こうに見えるのが監視台です。
門を囲む様に電流の流れる鉄線が張られています。
進んで行きましょう。
もとはポーランド軍のものをドイツ軍が奪い
レンガ作りの建物は1階建てだったものを収容所された人々に増設させたそうです。
収容所内には当時からポプラの木が植えられています。
左が最近植え替えられたものだそうで右が66年経ったもの。
当初は左の高さのポプラが並んでいたそうです。
しかし何故ポプラが植えられているのかはわからないそうです。
では、建物内に入って行きましょう。
こちらはどこのユダヤ人が連れて来られたかが載ったマップです。
当時のドイツの勢力は強くかなり広域から収容されていることがわかります。
こちらが当時の勢力図です。
グレー+グレーボーダーがドイツ+同盟国
ベージュが占領国です。
当初収容所は
ドイツの犯罪者から反政府主義者、精神異常者、同性愛者、などが収容所されていました。
(or もされていた。すいません、記憶力が曖昧です。)
実際に使われていたのは1940-1945の4年7ヶ月なのですがその間の推定被害者数です↓
下が英語表記
わかりますか?
アウシュビッツでの被害者は少なくても130万人
うちユダヤ人が110万人で90%を占めます。
当初は鉄砲で撃ち殺していたらしいのですが、
ユダヤ人を次々に収容所していけばそれだけ収容者数も増える訳で、
その人数を撃ち殺すとなれば時間もかかる。
なにより鉄砲を射つドイツ軍兵の精神的負担もかかる。
ということで↑表記にもありましたが手っ取り早い
「ガス室」
が作られたと思われます。
まず連れて来られた人々は医者によって健康状態をチェックされ
使えると判断された者が労働に。約20%だそうです。
その他の者の女性や子供に関しては「シャワーを浴びる」と言われ
脱衣所で服を脱ぎ、
ガス室で「ガスのシャワー」を浴びるわけです。
当初は名簿を作ったりと手が込んでいたのですが
しだいに人が多くなりガス室に直行というのが多数だったそうです。
これが当時使われていたガスの缶です。
中身は固形状で煙突から投下し約15分で死に至るそうです。
こちらがその後、遺体を焼却する焼却炉です。
アウシュビッツでは他に
・連れて来られた際に剥奪した財産
・使っていた靴、メガネ、食器、カバンなど
・資源として使われていた髪の毛
・顔つきの囚人名簿
等も展示されていますがこのエリアに限っては
「撮影は控えてください」
という事になっています。
理由は考えて頂ければわかるかと思います。
アウシュビッツ収容所ではすべてがうまくシステム化されていて
水洗トイレなど設備が整っており、表面上は酷い内容を巧妙に包み隠す様な
書類や写真がいっぱいあります。
また、囚人(ユダヤ人)の中から看守を作り
氾濫を抑えたり逃げ出そうとした人を見せしめにしたりとコントロールされていました。
約1-2時間かけアウシュビッツを周ったところで、「ビルケナウ」へバスで移動します。
ビルケナウはアウシュビッツに収容しきれなくなった為に作られた
かなりデカイ規模の収容所で
あのアンネ・フランクも2ヶ月収容されたそうです。
自分は観たことないのですが(*帰国後観ました。)
「シンドラーのリスト」で使われてところです。
こちらが実際に使われていた列車。この中に60-70人を詰め込み連れて来たそうです。
こちらが終点で、
ここで人々を降ろし持って来させた財産を奪い合い列車に乗っけ引き返します。
その目の前には他ヶ国語で追悼の石碑が建っていて
その地から訪れた見学者が追悼の意で石を置いていくそうです。
(すいません、写真がありません。)
ビルケナウには全部で4つのガス室がありましたが、
終戦間際にドイツ軍の手により「証拠隠滅」のために爆破されました。
が爆破しきれずこの場を去ったため、現在もそのままの状態で残っています。
当時、ここら辺一帯は湿地帯で
焼却された骨は囚人の手により池(沼)に捨てられてそうです。
また近隣住民の希望から周辺を分け隔てる様に木が植えられています。
ビルケナウは当初はアウシュビッツ同様レンガ作りでしたが、
第二次世界大戦の戦況が徐々に悪くなると木製で馬小屋の設計とスピード重視に切り替えられます。
ただ現在は戦後に木材へ転用されてしまったため残されていません。
さて、ここが最後で内部の説明です。
アウシュビッツでの最初の頃は床にワラな様な感じなのですが、
ビルケナウになるとこのベッドとも言えない狭い空間に1段に5-6人で寝かされていたそうです。
こちらも見たことある方もいるかもしれませんがトイレです。
アウシュビッツでは水洗トイレでしたがビルケナウはこんなんです。
トイレもだいぶ制限されていたらしく好きなタイミングではもちろん行けず
食事用の食器にしてしまう者もいてバレれば殴られ、
トイレに連れて来られても1人15秒ほどの時間しか与えられなかったそうです。
ドイツ軍兵に感染症を移さないためにもトイレと洗面台は別になっています。
と言う事で時間が来てしまいました。
ビルケナウはほんとに広くてなかなかみきれません。
自分達が回ったのは左側の黄色く囲まれているところとその下です。
そしてビルケナウにはこんな風景が広がっています。
今だから感じることだと思いますが、
なにか変な平和さ
がありました。
せっかくの中谷さんのガイドを聞き逃さない様に
iPhoneでの写真は後回しになってしまい少なくてすいません。
これからアウシュビッツに行かれる方は個人だと好きに回れる良さがあるかもしれませんが、
是非、中谷さんのガイドをお勧めします。
出張などもあり3,4ヶ月前だと予定が立たないらしいので1,2ヶ月前とかで大丈夫だと思います。
こちらが説明中の中谷さん↓
説明は例えを出してみたり想像させてみたりと
飽きさせず言葉使いはとても丁寧で性格が出ています。
まぁやはり伝え方に関しては人それぞれなので好き嫌いは出るかもしれませんが
「自分はお願いしてよかった」と思っています。
いや、声を大にしてオススメします。
さらに行くつもりのワルシャワや
その他のオススメの観光地について聞いたりもしましたし、
ポーランドにいる間になにかあったらいつでも連絡してください。
とまで言ってくれました。
そう、アウシュヴィッツは確か
ガイドツアーじゃないと回れない時期と時間があったと思います。
ので確認された方がいいかと思います。
HP→http://en.auschwitz.org/m/
一部記憶が曖昧だったり間違っているところがあるかもしれません。その際は言ってください。
この日記を通してみなさんがどう感じるかはわかりませんが、中谷さんがおっしゃっていたのは
「ここ5年程でヨーロッパ内での考え方が、いかにヒットラーが酷い人間だったかではなくなぜこうなってしまったのかに観点が変わって来た」でした。
自分もそう思っていましたがヒットラーが独裁者ですべてを操っていたというよりは、
「いろいろな時代、政治背景が後押しをして、さらにヒットラーの賢さ、また賛成も反対もしない傍観者がいかに多くいてこのユダヤ人撲滅に歯止めがかからなかったか。」
という点が問題なのでは。
というのが今ヨーロッパ内での見解だそうです。
もちろん中には反対の声を挙げ収容され亡くなった方もいます。
そういう方に敬意を示すためアウシュビッツ内では
撃ち殺された壁の前に見学者からの花が添えられています
この問題は非常に難しく遠い様で身近。論点は沢山ある気がします。
いろいろ書き足したい事はありますが...。
見学中、幾度と込み上げてくる箇所がありましたが
ユダヤ人グループがイスラエルの国旗を背中に巻いて回っているのをみた時は
流石に我慢しきれませんでした。
ただそのイスラエルも争いをしている。と考えると...。
なんとも言葉にできません。
しかしながら
「精神的に追い込まれた人間の行動、心理は計り知れない」
という中谷さんの言葉は再発する危険が潜んでいるという人間への警告に聞こえました。
第二次世界大戦で敗戦したドイツ、そしてそれを取り巻くEU諸国が一帯となって考え共存している今、
そして同盟国だった日本人として負の遺産とは非常に難しいものだと感じました。
中谷さん曰く、
日本人のアウシュビッツ博物館への年間訪問者数は
約7000人
とのことです。この数が多く感じるか少なく感じるかはみなさん次第ですが
自分にはとても少なく感じました。
ちなみにお隣、韓国は約7倍だそうです。
23日目終了。


クラクフ駅~アウシュビッツまでのバス 11zł×2
博物館併設レストランでのランチ 20.5zł
アウシュビッツガイド料 50zł
ジュース(博物館売店) 500ml 4.5ł
当時 1zł≒¥31
たまにワンポチ頂けると嬉しいです:)
PC・スマホの方はこちらから↓


ケータイの方はこちらから↓
ヨーロッパ旅行人気ブログランキングへ