経済成長と人的資本
90年代前半に、労働者の知識や技能の蓄積を示す変数である「人的資本」が、どのように経済成長をドライブするかということが議論された。ここでは、これまでの経済成長理論の中で、特に人的資本についてフォーカスしたものについて整理したいと思う。何故なら、一連の研究は、人的資本とはイコール「教育」の量や質を代理変数とすることが多く、言い換えれば、教育による知識や技能の蓄積が、経済成長をどのような影響を与えるかという問題意識に答えるものであったからだ。
まず、最初に、少し教育の話から離れて、技術進歩を内生化する試みとして、内生的経済成長理論がフォーカスされることになった背景について説明したい。経済成長モデルは、SolowやRamseyによって確立された新古典派モデルが基礎となっている。しかし、Solow ModelやRamsey Modelでは、①長期的な世界全体の成長、②国家間の所得格差の存在、を説明できてない。特に、人的資本との関係で言えば、後者の国家間の所得格差、をどのように説明するかという点は、重要である。Solow Modelによれば、国々の経済成長は、所謂、Steady Stateに収束する。すなわち、Solow Modelでは、貧しい国は経済成長率が高く、豊かな国は経済成長率が低いため、いずれ貧しい国は豊かな国に追いつくことを意味する。しかし、当然のことながら、現実にはそうなっておらず、依然として国家間の所得格差は存在する。内生的経済成長理論は、かつてSolow Modelの枠組みの中で説明できなかった、上の2つの点を、Solow Modelでは十分に定義されていない外生変数であった、「技術進歩」を内生化することによって、説明しようと試みたのである
内生的経済成長理論は、主に2つに分類される。一つは、技術進歩は、知識やの蓄積と定義され、R&Dセクターが、新技術の生産し、知識の蓄積するというプロセスをモデル化したものである(Romer (1990),Grossman and Helpman (1991), Aghion and Howitt(1992))。このモデルの特徴は、Solow ModelやRamsel Modelなどと等しく、経済成長の主たる要因は、資本の蓄積ではなく、知識の蓄積にある(Solow Modelにおける外生的な技術進歩)にあると見ている点である。しかし、このモデルは上述の①を説明することができても、②の国家間の所得格差を説明するには至っていない。このモデルは、多くの新技術を生産し利用する国は豊かになり、そうでない国は貧しいから、国家間に所得格差が生まれると説明している。しかし、現実的には、こうした新しい技術や知識は、国家を超えて波及していくので、国家間の所得格差は縮小すると考えられるからだ。
一方で、教育との関連で注目される、人的資本のモデルは、資本が成長にとって中心的な役割を果たすと考えており、上のR&Dモデルと比較して、国家間の所得格差を説明する上では有効なモデルであるといえる。逆に、このモデルは①の長期的な世界全体の成長を説得的に説明できていない点には注意が必要だ。このモデルは、文字通り、労働者の能力、技能、知識の総称である人的資本の蓄積に注目する。このモデルには、いくつかの定式化があり、ここでは、Mankiw-Romer-Weil、Barro-Leeなどのペーパーをリファーしつつ、理解を深めていくことにしよう。
教育支出は、教育効果を高めるか?
前回列挙したいくつかの根本的な問題を考える前に、過去の研究のレビューをかねて、これまで議論されてきた基本的な問題を振り返っておきたいと思う。一つは、教育に対する(政府や地方の)支出は、教育効果を高めることができるのかという問題だ。政策との関連では、教育経済学の中心的話題の一つは、間違いなく、教育支出とその効果の関係ではないかと思う。
教育経済学の研究でよくリファーされるペーパーの一つに、Eric A. Hanushekの "The Impact of Differencial Expenditures on School Performance"(1994) がある。多少、古いディスカッションではあるが、今後、進めていく議論の出発点として、レビューしておきたいと思う。
このペーパーの結論は、過去の研究の蓄積を見る限り、政府や地方が教育支出を増やしても、教育効果の改善は見込み難いというものだ。Hanushekは、Vote Countingという統計的手法を用いて(Vote CountingについてはLight and Smith (1971)などを参照)、教育のインプットとアウトプットの関係を、生産関数を用いて推定した複数の論文のうち、187の推計式を、1推計1票として、
(1) インプットとアウトプットの関係が(5%水準で)統計的に有意で、かつポジティブなもの、
(2) インプットとアウトプットの関係が(5%水準で)統計的に有意で、かつネガティブなもの、
(3) インプットとアウトプットの関係が統計的に有意でなく、かつポジティブなもの、
(4) インプットとアウトプットの関係が統計的に有意でなく、かつネガティブなもの、
(5) その他
の5つに分類した。(5)その他には、インプットとアウトプットの関係が、ポジティブなのかネガティブなのかはっきり記載されていないなど、分類不可能なものが含まれている。ここで、インプットとは、教育に対する何らかの支出であって、中央政府や州など様々なレベルでの支出の合計金額である。一方、アウトプットとは、教育効果であって、生徒のテストスコア、進学率、出席率、などがその指標になる。例えば、(1)の関係においては、支出を増加させれば、生徒のテストスコアなどの上昇がみられる、という結果が観察されているということであるし、(2)においてはその逆ということになる。(3)と(4)は統計的に有意ではないため、教育支出と教育効果の間には何の関係もない、ということが示されているということになる。
HanushekのVote countingの結果をみると、教育支出と効果の関係についてみた生産関数の推計結果は、65サンプルあり、これを上記に従って分類すると、
(1) 13 (2) 3 (3) 25 (4) 13 (5) 11
となる。総じて、統計的に有意でないとする研究が多いことから、彼は、教育支出と効果の間には、"strong"かつ"systematic"な関係は見られない、という結論に至っている。彼の研究は、この支出項目を細分化することも試みており、例えば教員の給与、管理・運営の支出、建物やコンピューターなどの支出のいずれもが同様の結論を得られるとしている。こうしたことから、Hanushekは、学校教育の「質」の改善には、支出の増加以外の政策が採られるべきであるということを主張しており、特に学校が効率的な運営を行うために、政府や個人がどのようなプレッシャーを与えるべきか、あるいは教育効果を高めるために、学校がどのような制度構造になるべきかという点(例えばガバナンスの観点から)を議論すべきだと述べている。この提案は決して的が外れたものではないと思う。
しかし、統計学的な点からみると、この分析手法は、多少荒っぽい。まず、Vote Countingという手法は、そもそもサンプル数が増加すればするほど、すべての研究に存在するような関係性を発見するには適していないという点がある。(Hedge and Olkin (1980))。別言すると、推量頑健性(inference procedure)の観点から、計量経済学でいうところのType 2 errorを起こしやすい。
更に、対象となった65サンプルのうち、同じ著者が書いたものや、同じ定式化のものが含まれていたりすることによるサンプルバイアスの問題がある(publication bias)。また、1推計1票なので、質が高く、非常に影響力の高い論文も、そうでない論文も(例えば定式化に誤りがあったり、統計的手法に問題があったりするものも)同じ1票であるという問題がある。そして、研究者は通常、自分の結論に有利な推計結果しか公表しない傾向があることにも留意が必要だ(reporting bias)。
これらを踏まえて、Hedge,Laine and Greenwald (1994)は、新たにMeta-Analysisという手法を用いることを提案し、Hanushekのデータを分析した直した結果、Hanushekの結論とは、反対の結論を得られることを示している(Hedgeらの論文は、統計的にかなりテクニカルであるため、Meta-Analysisの詳細はここでは触れない)。すなわち、彼らの結論は、教育支出の増加は、教育効果を改善する、ということだ。
HanushekとHedgeらの論争は、その後1年にわたって続いたが、統計的な手法だけを取り上げると、Hedgeらの手法は、HanushekのVote Counting Methodの問題点をカバーしているという点で、優れている。そのことを認めたうえで、Hanushekは、Hedgeらの結論は、現実の政策課題に何ら答えていないという批判を展開している。すなわち、ポリシーメーカーは、教育の質を改善するために、どんどん予算をつぎ込めばよいというような結論を到底信じることができないだろうということだ。
確かに、Hedgeらの研究成果をもって、"throwing money at school"(Hanushek) という結論に至るのは拙速に過ぎる。しかし、政策決定プロセスにおいては、「教育支出が効果を改善する」、という一般的な前提は保持されるべきであろう。その上で、「どの分野」に「どの程度」支出するか、というのは次のステップの議論になってくるということだ。Kremer (1995)はこの点について、教育予算の配分は、地域や学校単位で分権化されるべきだという研究結果を示している。すなわち、支出が中央政府に集権化されている限りは、教育効果の改善は見込めないが、予算の配分や管理が分権化されたケースでは、支出の増加が、教育効果の改善につながっていることを示している。
参考文献:
[1]Hanushek, A.E. (1989). The Impact of Differential Expenditures on School Performance. Educational Researcher, Vol. 18, No. 4, 45-51.
[2]Light, R.J., and Smith, P.V. (1971). Accumulating Evidence: Procedures for Resolving Contradictions Among Different Studies. Harvard Educational Review, 41, 429-471
[3]Hedges, V.L., Laine, D.R., and Greenwald L.R.(1994a). An Exchange: Part I: Does Money Matter? A Meta-Analysis of Studies of the Effects of Differential School Inputs on Student Outcomes. Educational Researcher, Vol. 23, No. 3, 5-14.
[4] Hedges, V.L. and Olkin, I. (1980). Vote Counting Methods in Research Synthesis. Psychological Bulletin, 88, 359-369
[5]Hanushek, A.E. (1994). Money Might Matter Somewhere: A Response to Hedges, Laine, and Greenwald. Educational Researcher, Vol. 23, No. 4, 5-8.
[6]Hedges, V.L., Laine, D.R., and Greenwald L.R. (1994b). Money Does Matter Somewhere: A Reply to Hanushek. Educational Researcher, Vol. 23, No. 4, 9-10.
[7]Kremer, M (1995). The World Bank Research Observer, Research on Schooling: What We Know and What We Don’t – A Comment on Hanushek, Vol.10, No.2, 247-54.
教育を経済学的に分析することの意味
安部内閣の組閣に伴い、新任された伊吹文部科学相が、小学校5年生以上の英語必修化について、「必須化する必要は全くない。まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と必修化に慎重な考えを示した(9月27日)。
このように、教育に関する議論というのは、「自らの経験や価値観に基づく」議論がとても多い。小学校に英語教育を持ち込むことによって、一体どのような、社会的・経済的リターンが見込めるのか(ネガティブリターンも含む)、という議論が置き去りになったまま、主観的な是非論ばかりが取りざたされているように感じる。
経済学的な観点から考えると、教育というのは「投資」だ。家計が、あるいは政府が教育に投資したとき、それが将来の社会や経済に一定のリターンをもたらす。そのリターンが最大化するように投資を行わなくてはならない。時に、教育者は、教育というのは社会に必要なインフラだから、支出すればするほどよいと考えて、かなり行き過ぎたパブリック・コミットメントや財政支出を要求することがある。しかし、教育に対する支出も、道路や公共建築物など他のインフラへの支出と同じで、行き過ぎた支出は、教育投資の限界的なリターンを低下させるし、民間の教育関連産業をクラウドアウト(締め出し)することにもつながるだろう。
90年代の初めに、マクロ経済学の研究者が、長期の経済成長率の決定要因としてもっとも重要だと考えられている、「技術進歩」を説明する要因として、研究開発投資や教育に関する投資の役割を強調したことがあった。私自身も、そういった研究に、興味をもっていたことがあり、教育の質、あるいは量が、経済成長にどのような影響を与えるのか、ということについて考えた時期があった。教育の質、あるいは量の定量化については、特に途上国での統計整備の未発達もあり、いまだ議論があるところではあるが、ある教育業界の関係者から、「教育の質を定量化するなど、とんでもない愚行」という指摘を受けたことがある。
私は、逆に、この指摘を滑稽なことだと思う。私も、自分自身が学生だったときのことを振り返って、教育から得られた実質的な恩恵は、定量化することが困難であることくらいは承知している。しかし、教育は先にも述べたように、「投資」だ。株式や債権に対する投資と同じように、どれだけ投資すれば、どれだけのリターンが得られるかということは知っておいて損はない。逆に、どれほどのリターンが得られるかということを考えずに、限りあるリソースやお金を投入するのはとても危険だと思う。教育の量あるいは質の定量化は、こうした教育の「コスト」と「ベネフィット」の関係を分析するための、科学的なツールの一つだと思う。
先に述べた英語教育の件でいえば、国家が、小学生の英語教育の必修化を先導することの、「リターン」が何であるのか、それが投入するリソースやお金に見合ったものであるのか、ということを精査しなければならない。教育のリターンが何であるのか。それ自体にも様々な議論があろう。しかし、一義的には、家計の単位でみれば、所得だということになるし、国の単位でみれば経済成長ということになるだろう。
先に紹介した文部科学大臣は、フランス人はフランス語を重んじていて、日本もそうするべきだとか、英語よりも日本語を先に勉強するべきだという。確かに、フランス人の英語嫌いは有名だが、フランスの1980年の以降の平均経済成長率は、3.9%(アメリカは、4.6%、日本は、4.1%)に留まっている(IMF,World Economic Outlookより筆者計算)。一方、インドは、国策として、母国語であるHindiよりも英語に重点を置いた教育を展開している。同期間のインドの経済成長率は6.6%で、フランスよりもはるかに高い。もちろん、インドの成長率が高いのは、彼らの英語教育がすべての原因ではないし、インドは発展途上国だから、「成長率」が先進国と比べて高いのも当然といえる。
しかし、私がここで、提起したい問題は、文部科学大臣が、「フランス人がフランス語を大切にしている」から、日本もそうしたところで、国民に一体どういうベネフィットがあるのか、それは明らかでないということだ。例えば、「フランスが、外国語教育よりも母国語教育に重点をおいた結果、以前と比べて○○のような結果が得られた。」というなら、その得られた結果如何によっては、日本もフランスの教育政策を模倣する価値があるかどうか、検討の余地があるだろうとは思う。
OECDが発表しているPISA(Programme for International Student Assessment:学習到達度調査)という統計がある。これはクロスカントリーで、「義務教育修了段階の15歳児の生徒が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかどうかを評価」するもので、研究者には広く用いられている統計だ。2000年以降行われているこの調査で、日本の小・中学生の成績は決して悪くないが、先進国の中では、フィンランドの数値が抜きん出ているというので、日本の学者や教育委員会の関係者がこぞって、フィンランドに視察に出かけるという。しかし、2006年のフィンランドのGDPは213 Billion Dollars(日本は、4987 Billion Dollars、フィンランドの約23倍にあたる、前出と同じく、IMF,World Economic Outlookより)。私にいわせれば、フィンランドに、一体何を視察にいくのか、と思う。PISAというのは、基本的には、小中学生のテストのスコアを標準化したものだ。テストのスコアと、所得あるいは生産性の間には、有意が相関が見出せないことが、数多くの先行研究で、明らかになっている(Levin and Kelley "Can Education Do it Alone?", 1994, など)。
若干、話が横道にそれるが、テストスコアと所得あるいは生産性の間には、正の相関があると一般には信じられていると思う。何故なら、親は、テストの点数がよければ、ランキングの高い大学・大学院に入ることができ、そうすれば、給料の高い会社に就職できると思うからこそ、子供の教育に躍起になるのであろう。しかし、全体としてみると、この関係は不思議なほどに成り立たない。先にあげた、Levin and Kelleyは、これを証明する例として、日本のHONDAなど、自動車産業の例を挙げている。HONDAによると、現地アメリカ人を採用している、オハイオ工場の生産性は、日本にある同規模の工場よりも生産性が高いということだ。PISAなどで観察される日本の小・中学生のテストスコアは、アメリカと比べるとはるかに高い。しかし、テストスコアの高い彼らが労働市場に参入しても、アメリカ人より高い生産性や賃金を獲得できているわけではない。これは、一例に過ぎないが、Levin and Kelleyは、生産性や賃金を決定する要因としては、個々の労働者のテストスコアよりも、在庫や人員管理のマネージメント手法や、長期の労働契約などの要因のほうが重要であることを述べている。
安部政権が、大胆な教育改革を行うという。それ自体は、私も賛成だ。国家のもっとも貴重な資源は「人」だ。良質の教育を提供することは、国力の強化につながる。そのことは疑いようもない。しかし、教育は、「投資」だ。そのリターンを把握し、限りあるリソースを適切に配分する必要がある。
このブログでは、自分の研究成果や、先行研究のリファーをしながら、日本や世界の教育関連のテーマを取り上げて、経済学のツールを用いて、解説していきたいと思う。特に、執筆を通じて明らかにすべきポイントとして、以下のようなことが考えられる。
(1) 教育のリターンとは何か。
上記では、一義的には所得あるいは、経済成長と述べたが、これ以外にも正の外部性などについても考える必要があるだろう。一般に、外部性(externality:ある個人が教育を受けて、新製品の開発などで社会に貢献した場合、社会の多くの人々がその恩恵をこうむることができる)は、Observableでないため、外部性を無視すると、教育のBenefitが過小評価される原因になりやすい。
(2) 教育投資の効率を高めることが出来るのか。
最近では、教育が生産性を高めることが出来るのは、市場が競争的な環境におかれている場合のみだという指摘がある。例えば、Ramon, Vinod, and Yan[1998]("Addressing the Education Puzzle: The Distribution of Education and Economic Reform")は、かつてソビエト、スリランカ、フィリピンなどで示されたように、教育にも多額の資金をつぎ込んでも、市場が十分に競争的な環境(より生産性の高い労働者に対して、高い賃金が払われることが保証されているような)でなければ、経済にはプラスの効果がないことを指摘している。特にこうした事象は、Transition Economy、すなわち旧社会主義国で見られる現象であり、こうした国々では、高学歴の労働者が、西ヨーロッパやアメリカなどに流出する、所謂Brain-Drainに悩まされている。逆に言えば、市場が十分に競争的であれば、教育に対する投資は効果を高めると考えることも出来る。
(3) 教育に対する政府の役割とは。
教育は(特に義務教育のレベルでは)広く国民に提供すべき、ユニバーサルサービスの一つであろう。しかし、繰り返しになるが、財政支出を伴うパブリック・コミットメントは、その効果をできるだけ定量的、定性的に把握し、慎重に行われるべきものである。言うまでもなく、これらの支出は税金によってまかなわれているため、「公平かつ効率的」なものでなければならない。例えば、教育効果との関連で言えば、School Mealや、バウチャー、奨学金や、Student Loanなどの与える影響、公立学校へのコミットメントが与える影響なども議論になる(例えば、Vermeersch and Kremer,"School Meals, Educational Achievements and School Competition: Evidence from a Randomized Evaluation, 2004または、Newhouse and Beegle, The Effect of School Type on Academic Achievement: Evidence from Indonesia, 2005など)。これに加えて、そうした教育効果が、経済にどのようなインパクトを与えるかという分析も必要だ。
教育と経済の問題に関する分析は、発展途上国を対象にしたものが多いが、これらの分析のいくつかは、日本の教育に当てはめて考えることもできる、いくつかの重要な視座を提供してくれている。
