4月から始まるオンラインサロン🕊🌈
『正常化から最適化へ』と題した、
「大人女性のウェルビーイング」のためのオンラインサロン💻✨
私自身の“正常化”をもう一度やり直すために、
過去の自分を振り返ることにしています🌿
これは、私の振り返り
と同時に「正常化→最適化」の実装記録📖✨
思い出した順に、私のターニングポイントの記憶を
気が済むまでつづってみようと思います。
DAY1|7歳の私は、死にかけていた。🏥🩺
7歳の私は、死にかけていた。
手術が怖いだろうと気を使った看護師さんが、
「こわくないからね、大丈夫だからね🥺」
と私を宥めてくれたとき、
私はこう言った。
「この痛みがなくなるなら、早くしてほしい」💦
でも周りの病院の人たちはバタバタしていて、
私の声は、どうやら届かないようだった。😶🌫️
人は死ぬ前、
「自分が死ぬかもしれない」って、悟るんだと思う。
もしかして、死んじゃうのかも…🫥
7歳の私でも、そう分かった。
麻酔が効いてきて、痛みがスーッと引いてきたころ、
なぜか頭の中をぐるぐる回っていたのは…
📺スクール☆ウォーズのイソップが死ぬシーンだった。
イソップ=死👼
(7歳児の脳🧠って、そういうものらしい)
私は、心電図をじっと見ていた。📈🫀
「これがゼロになったら、イソップと一緒だ。」
そう思った瞬間、意識が遠のいていった…。
今でも鮮明に覚えてる。
40年以上前のことなのに、
あの瞬間は記憶に刻まれたまま消えない🕯️
目が覚めたとき、痛みがなくなっていた。
生きてるか確認したかったけれど、
できたのは目を開けることだけ👁️👁️
誰かが来るのを、ただ待った。⏳
待ってる間、私は思った。
「もし生きてたなら、
自分の人生は“終わった”と思おう。
これからは“次の人生”。
生かされたなら、人のために尽くそう。」🕊🌈
7歳の私は、そう決意した。
(今思えば…7歳のくせに、
そんな決意ができるくらいの内省力を、すでに鍛えられていたのかもしれない🌿)
🩺私は生きていた。そして…盲腸は破裂していた。
私は生きていた。
当時(40年以上前)は、子どもの盲腸が破裂して命に関わることがある…
そんなふうに聞かされる時代だった。⚠️(※当時の記憶として)
私の盲腸は破裂していた。
お腹の中は膿だらけ。
お腹の真ん中は20センチ以上切り開かれ、
洗浄のためにチューブを入れて、じゃぶじゃぶ洗ったらしい。
そして後から、こう言われた。
「あと5分遅かったら、死んでいた」⏱️
盲腸の入院って、1週間くらい…って聞いていたけれど、
小学1年生の秋、私は1か月入院した。🍁
NHKでは「おしん」が放送されていた頃。📺
初めての秋の運動会も、遠足も、私は参加できなかった。😢
卒業式で、出席番号が早かった私が担当した呼びかけの言葉は、
1年生はじめての「秋の大運動会」だった。
私は担任の先生に言った。
「1年生の運動会、出てないから…変えてほしい」
でも先生はこう返した。
「順番だから」
「あなたを変えたら、みんなも好きなのを選ぶでしょ」
小学1年生の手術や入院、死の淵まで行った体験なんて、
小学6年生の担任の先生が知るはずもない。
「風邪で休んだ」くらいに思われていたのかもしれない。🍃
そのとき私は、悟った。
「教職員には包容力はない。」
「大人は万能ではない。」😶
“理由を聞く”という配慮すらないことが、
子どもながらに、ただただ残念だった。
そう、私は小学生で、
他人を諦める術を知っていた。
そして後に知る。「私は母に生かされた」
後に私は、この手術が、母の懇願によるものだと知る。
市立病院の先生は原因不明として、
すぐには手術に踏み切らなかったらしい。
母は小児医学書を必死に読み漁り、
私が盲腸である“経緯”に辿り着いた📖
そして小児科の先生に掛け合った。
「ここに書いてある経緯と同じなんです。」
「まさみは盲腸です。すぐに手術してください。」
小児科の先生は外科の先生に掛け合ってくれた。
でも当時は、外科の先生の方が力関係が強かったのか…
なかなか手術の判断にはならなかったという。
「責任は負わない」
その念書を書いて行われた手術。
私は間違いなく、母に生かされた。🕊🌈
その事実を知ったのは、高校生のときだった。
手術跡の傷跡は
40年たった今もケロイド体質である私の身体に色濃く残っている。
わたしは消したいと思ったことは一度もない🏅

