星と音楽で よかっ祭  -352ページ目

星と音楽で よかっ祭 

人生航路、夢は持ち続け からくり儀右衛門さんを見習いたい! 
星も 音も 「飽くなき探求心」だ!

1月4日 仏滅(癸酉) 旧暦 12/5
 月齢 4.2  

月の出時刻 10時28分
月の入時刻 21時54分

 

早くも4日

タイムシフトで、年末からの見逃し

まったりと視て居ります

 

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  憐 憫

 

 タイムシフト (メモに記録)    ” 瀬川氏とAX-80 ”

高名なオーディオ評論家は信用してはいけない 1 _ 瀬川冬樹

    投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 29 日 16:13:47

 

瀬川冬樹 講演 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=OPhULT16Xbg
https://www.youtube.com/watch?v=kiuFRvf-RSQ

瀬川冬樹の書いた記事の原文
http://www.audiosharing.com/people/segawa/segawa.htm

虚構世界の狩人(瀬川冬樹)
http://www.audiosharing.com/people/segawa/kyokou/kyokou.htm

オーディオABC(瀬川冬樹)
http://www.audiosharing.com/people/segawa/audio_abc/audio_abc_1.htm

瀬川冬樹のステレオテクニック(瀬川冬樹 監修・菅野沖彦)
http://www.audiosharing.com/people/segawa/technic/technic.htm

オーディオの系譜(瀬川冬樹)
http://www.audiosharing.com/people/segawa/keifu/keifu_1.htm


▲△▽▼

瀬川 冬樹(せがわ ふゆき)

1935年1月10日-1981年11月7日[1])は、工業デザイナー、オーディオ評論家。

本名・大村一郎。10歳頃から鉱石ラジオ作りに夢中になる。

その後アンプづくりに発展し、16歳のときに自作の「2A3PP負帰還アンプ」が、

『ラジオ技術』誌の「読者の研究」欄に掲載される。

それが縁で同誌の編集部員となり、自筆のイラスト入りで原稿を執筆するなど大いに活躍。

桑沢デザイン研究所出身。

「瀬川冬樹」のペンネームは1953年頃に使い始めた[2]。 46歳で死去。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B7%9D%E5%86%AC%E6%A8%B9


▲△▽▼

瀬川冬樹は創刊まもない頃のSS誌で、ゴッホ美術館で手持ちの複製画の

本物を見た時その本物は所蔵の複製画の複製に見えた、という小林秀雄の

有名な一文を引いてオーディオ論を展開していました。

今日眺めても極めて優れたオーディオ論で、瀬川畢生の名論文だとおもいます。

 

瀬川冬樹氏の名論文は1960年頃のラジオ技術誌の「私のリスニングルーム」、

しばらくあとの「M夫人のクレオさん」(クレデンザのこと、M夫人は福岡で御健在)、

1960年代半ばのラ技連載の一連の「これからのステレオ装置」などであり、

個人的には1970年代の瀬川さんは抜け殻としか思えないのです。

それは瀬川さんも分かっていたようです。

 

お亡くなりになる直前のことですが倉敷在住のIさんに、

ぼくはもうだめなんだ、体もだめだしオーデイオも堕落してしまったんだ、

今一度昔に帰りたい、45とアキシオム80に戻りたい、

そのために 80は8本用意しているんだが、、、と述懐されたそうです。

 

瀬川さんのピークは 

JBL の蜂の巣ホーンをお使いになられたマルチアンプ時代の頃まででしょう。
Iさんからその話を伺った時、なぜか太宰治を想いました。

氏が癌に侵されていることはそのころは既に衆知のことでした。
しばらくしてお亡くなりになったのですが大村一郎としてはS字状結腸にできた腫瘍で

亡くなったとしても瀬川冬樹としてはそうではないと思ったものです。

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瀬川冬樹先生の音が聴こえてくるかのような素晴らしい評論文とともに

氏の愛用する 4341、4343、4344が売れに売れていました。
ミニスピーカーを除いて、歴史上日本で一番売れたスピーカーはJBL4343だそうで、

なんと1万セットも売れたそうです。
輸入代理店のサンスイ(既に倒産)は自社製品よりもJBLで食べていたとか。
 

オーディオ界のバブル…4343
その頃の、オディーオ誌の試聴におけるリファレンススピーカーと言えば

JBL4343が標準になっていました。
本来4343はプロユースのスタジオモニターなのですが、これが一般受けしてしまった。

いわゆる4343ブームです。

4343 は日本でこそ 1万セットも売れたらしいが、アメリカでは探すのも難しいと聞くから、

いかに日本人だけが 4343 贔屓かわかろうというもの。
http://yosigaki.s214.xrea.com/nikki20090501.html


JBLは4341をやや大きくした、後継機種4343を発売した。
4343の用途は何であったのか?いまだによく分からない。
4343はプレイバック・モニター用途と言うが、スタジオで4343を見たこともないし、

使った話も聴かなかった。

 

瀬川さんの記事のお蔭で 4343は高額であったにも関わらず、物凄い量で全国的に売れ始めた。
4畳半に住む若者が4343を買って、寝るスペースを狭くして

4343にかじりついて聴いている話は、営業からよく聞いた。

 

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JBL 4343/4343WX モニタースピーカー考察

JBL 4343、4343WXは日本のJBL史上最も有名で

一時期はオーディオマニアのステイタス的な存在でした。
JBL 4343は日本国内で累計1万セット(2万台)も販売され、

最大ピーク時の販売数量は年間3,000セットを超えたと言われています。

当時の異常な販売台数に、JBL本社では「日本にはそんなにスタジオがあるのか?」

との、逸話が残っています。


実際にJBL 4343は4ウェイということもありレコーディングスタジオで使われることは

ほとんどありませんでしたが、JVCマスタリングセンターでは使われています。

当時のオーディオ評論家 故・瀬川冬樹氏がJBL4343を非常に高く評価し

マークレビンソンとの組み合わせで自宅で常用していました。

●JBL 4343/4343WX:1976年発売
●JBL 4343/4343WX 当時の販売価格
JBL 4343A:\560,000
JBL 4343AWX:\580,000
*いずれも、1台の販売価格
http://jblfan.mitsu-hide.com/JBL_4343_4343WX.html

 

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1982年 当時大流行していた JBL 4343 (38cm・4way 60万円した) を使用していたが 

これがまったく音が飛ばない
プロ用であると宣伝していたが 官僚の国会答弁と同じ「ウソ」であることが後に分かったのである

当時日本中の中~上級者が瀬川冬樹という一人の評論家とステレオサウンドという

雑誌社の「ウソ」に引っかかったのである
JBL4343 を購入した多くのマニアが騙されたのである
日本オーディオ史上初のマニア、販売店、多くの業界関係者、多くの大小メーカーを

巻き込んだ大事件に発展していった

瀬川冬樹氏の急死と共に JBL4343 への熱病は急速にしぼんだ

プロ用と称していたこのスピーカーは評論家の瀬川冬樹氏がステレオ・サウンド誌で 

べた褒めしたため一世を風靡したものである

この JBL4343 はほとんどの大小メーカー及びほぼ100%の全国の販売店に採用され、

考えられないほど多くのマニアが購入した
オーディオ界始まって以来の極めて異常な現象が全国で起きたのである
エッジがボロボロに朽ち果てるものでこの評論家と雑誌社は大儲けしたという話は有名だ。
ところが、瀬川冬樹氏はある問題で資産のすべてを失い、ガンでアッという間に旅立ってしまった
46歳という若さであった
https://aucfree.com/items/u190943639

 

▲△▽▼

イシノラボ/マスターズ店長の連載
JBLを愛した男たち 2010年1月2日掲載
故、瀬川冬樹さんのお宅では、当時、日本に1台しかなかった4341をメインに使っていた。

このサウンドを聴かせていただいて、それほど大きくないキャビネットに38cmウーファを入れて、

よくまあこれだけの低音がでるなあ、さすがに使い方がうまいと感心したが、

振動系を重くしたウーファを採用し、重くなった中低域を避ける意味で、

ミッドバス・ユニット追加して、4WAY構成にしたことに秘密があったように思う。

しばらくして、JBLは4341をやや大きくした、後継機種4343を発売した。

4343の用途は何であったのか?いまだによく分からない。

4343はプレイバック・モニター用途と言うが、スタジオで4343を見たこともないし、

使った話も聴かなかった。

 

瀬川さんはすぐ、4343に買い換えた。ちょうど自宅を新築されて、広い試聴室に置いてあった。

パワーアンプはA級25Wのマークレビンソンをブリッジ接続で2台使っていた。

さすがの瀬川さんも4343には苦労したと思う。

 

まず、低音がゴロンとしたサウンドでまとまらない。

これは水平使用出来るように、ウーファ位置がキャビネットの下端、ギリギリについていたので、

低音が床に反射しておかしくなってしまうのであった。

スピーカスタンドを使うと、響きが薄くなってしまう。瀬川さんがさんざんトライして、

試聴室の長辺側に4343を設置して、壁との距離を微妙に調整して、

ついに最適なサウンドバランスを獲得した。その苦闘記をオーディオ誌に切々と書いた。

その効果が大きかったせいもあろう。

4343は高額であったにも関わらず、物凄い量で全国的に売れ始めた。

 

4畳半に住む若者が4343を買って、寝るスペースを狭くして4343にかじりついて

聴いている話は、営業からよく聞いた。

とてもバランスの取れたサウンドではなかったであろうが、所有する喜びが大きかったのであろう。

そうそう、あまりにも4343が有名になったので、あやかって、HPのオーディオアナライザーの

モデル名は4343にしたとの話を聞いたことがある。

4343を平行輸入した会社は大儲けをしたと言う話は本当であったらしい。

 

サンスイの国内販売部門はJBLがないと赤字であったが、JBLのおかげで元気であった。

オーディオ誌各社の試聴室でのスピーカは4343で占められた。

また、オーディオメーカーの試聴用スピーカは4343が多かった。

さらに、部品会社にも4343が置いてあることが多かった。

サンスイでは社内では1台使われていたが、アンプの音質決定には4343ではなく、

ずっと4320であった。

(私がサンスイを退いて、そして上司もサンスイを退いてから、B&W 803に代わったらしい)

 

私が聴いた中では、1990代、LUX社試聴室設置の4343は極めて反応の良いサウンドを

発揮していて、後続のJBLエレベスト9500をはるかに凌駕していた。

これは主に使っていた優秀エンジニアのO氏(後にブリッジオーディオを主宰)の

使いこなし上手だと思う。

 

アルニコ・マグネットの枯渇、そして、フェライトマグネットの採用

1970年代、アフリカ、ザイール内戦が勃発して、コバルトの供給が極端に逼迫した。

それ以前からアルニコマグネットの価格はじりじりと上がって、

価格の安いフェライトへの移行がスピーカ各社進行していた。

そんなわけで、TANNOY、ALTECなどのメーカーもフェライトマグネットに

切り替えざるを得なくなってきた。

 

それでは、アルニコマグネットとフェライト系マグネットはどう違うのだろう。

簡単に言うと、磁気抵抗が小さいのがアルニコ、大きいのがフェライトである。

(ちなみに、最近、強力マグネット材料と言われているネオジウムもフェライト系の性質を示す。)

現在の学術レベルでも、スピーカにおいて、フェライトとアルニコとのサウンドの

差異はうまく説明できていない。

 

でも、オーディオに少し興味があれば、聴いてみれば、好みは別として、差異は指摘できるはずである。

切れ味良く、ひずみ少なく聴こえるのがアルニコと言われているし、私もそう思う。

JBL技術陣は、アルニコマグネットの入手難、音質とのはざまで、

ついにフェライトマグネットへの切換を決断する。切換えるからには、

フェライトマグネットに最適な磁気回路があるべきと、研究・検討を重ねた結果、

ついにSFGと称する新開発磁気回路を開発した。

 

その主な特徴はポールピース、ヨーク形状を微妙に変更し、磁気回路によるひずみの改善を実現した。(近年、一部に電流ドライブアンプなるものが評価されているが、

 電流ドライブアンプを用いると、磁気回路によるボイスコイル電流ひずみが

 非常に改善(一桁以上)されるメリットがあると言われている。)

 

JBLは次々と磁気回路をフェライトに切り替えていった。4343は4343Bとなった

JBL技術陣も相当、気になっていたと思われ、わざわざ都内のホテルで

発表会を兼ねた技術講演会を開いたほどであった。

ちなみに、当時のサンスイスピーカはすべてフェライトに切り替わっていたし、

他社も、YL、ゴトー、エール音響とかのホーンドライバーを作っている会社以外は

切り替わったと言って良かった。

JBL技術陣の最大目的は、JBL4343の最大評価者である瀬川冬樹さんに

納得してもらうことであった。

 

ゲイリー・マルゴリスをチーフとする説得チームは、瀬川さん宅に夜間訪問して、

瀬川さんお使いの4343のウーファユニットを外し、新型フェライトマグネット採用の

ユニットを取りつけて、瀬川さんに聴いて貰った。

そのトライアルは深夜にも及び、瀬川さんはOKを出した。

彼等はほっとしたことであろう。

 

でも、サウンドが変わったことは否定できなかった。

フェライトマグネットを採用した4343Bは売れには売れたが、

以前よりも売れなくなってきたのは仕方がないように思えた。

 そうなると、JBLにとって4343は売上に大きな部分を占めるから

、このままで良いはずはなかった。

 

彼等はそれならば、フェライトマグネットを採用することによって

ユニットコストが下がるから、コストダウンした4343を作ろうということになった。

それは仮称4343CLASSICと呼んでいた機種であった。

これなら定価は¥10万以上安くできそうであった。それが、4344であった。

 

一方、ホーン・ドライバのフェライト化も進めざるを得なかった。

これはユーザであった評論家Oさんにテストして貰い、OKをいただいたが、

後になって元のアルニコに戻されて、今なお健在に動作している。

このころになって、JBLは買収されたシドニー・ハーマン(元、商務長官)

の影響が大きくなってきていた。

 

また、サンスイのほうも、アルニコからフェライトに移行して思うように売れなくなってきて、

友好関係が少しほころんできたような状況でもあった。

そして、ついにハーマンはすでに設立済みの日本法人、ハーマン・インターナショナル

に販売権を移行することを決定、サンスイに通告した。

 

サンスイは、くるべきものが来たということであったが、非常な痛手であった。

具体的には、社内のJBL販売課のスタッフの落胆ぶりは深刻であった。

過半数のスタッフはハーマンインターナショナルに転職したかたちで

サンスイを去ることになってしまった。

 

それ以降のJBLの動きは私が説明することもなく、JBLに関する書籍を読めば

詳細に述べられている。

ハーマン・インターナショナルに移った男たちも定年を迎える年齢になった。

世は無常なりの言葉をかみ締めたい。

以上の文章のなかで私は渦中の当事者ではなかったので、

憶測、間違いもあるかも知れないが、オーディオファンとして、

JBLファンとして、書いたつもりである。

 

JBLは、今なお有力なスピーカブランドであることには間違いないが、

ともすれば、ヨーロッパ勢の攻勢を受けている感がある。

攻勢とは、技術的には、音場研究とかユニット開発において、

他社はJBLとは異なった道を歩んで、異なったすばらしさを発揮しているような気がする。

オーディオのイシノラボどっとこむ - 第41回 オーディオ評論の今昔
オーディオ評論家さん達の思い出 瀬川冬樹さん
瀬川さんはペンネームであり、本名は大村さん。そのペンネームの響きは素敵である。

瀬川さんのキャリアは詳しくないが、はじめは、オーディオクラフト誌のライターでもあったし、

工業デザイナーでもあった。

私がお会いしたのはAU−607が販売された頃であった。

団地に住まわれ、リビングルームをリスニング・ルームにしていた。

そう広くないスペースにでかいEMT927があり、マーク・レビンソンのプリアンプ、SAEのパワーアンプ、KEFのスピーカ、

それに、驚いたのは、サンスイではまだ販売していなかったJBL4341(4343ではない)

をメインスピーカにしていたことだった。

 

JBLとKFFとは随分、音質傾向は異なるが、どちらも気に気に入られているようだった。

ガラス棚にはカメラがずらりと並んでいた。

レコードにトーンアームを下ろす手つきはすばらしくスムーズで

、ご本人も“俺ほど格好良くレコードをかけられる奴はいない”といわれていた。

聴かされたレコードはジャズ・クラシック・シャンソン等とジャンルに限らないという感じであった。

瀬川さんは“早く広い家に移りたい!”、

“でも、自営業者扱いになるオーディオ評論家には、銀行はなかなか金を貸してくれない”

と嘆いていた。

瀬川さんのオーディオにかける情熱は人並みはずれて凄かった。

従って、その文章には、人の気持ちを動かす迫力が常にあった。

 

また、リスリング・ルームを建てるために、もの凄いペースで働いていた。

しばらくして、素晴らしいリスニングルーム(瀬川さんの設計)を備えた豪邸を建てた。

その返済額は毎月、少なくない額と瀬川さんはいわれていた。

“だから、懸命に働くしかない”と。当時は、幸いなことに、オーディオ販売店や

オーディオメーカー、代理店主催の催事がたくさんあった。

 

また、オーディオメーカーや代理店も第3者的な見地からの評価を求め、

アドバイザー的な仕事もあった。

従って、原稿書きや講師、アドバイザーとして、物凄く“売れっ子”であったので、

超多忙であった。

JBL4343についての使いこなしでは第一人者であり、JBL関係者にとっては

大変なサポーターであった。瀬川さんは、本当にJBL4343を愛していたと思う。

また、その反対傾向にあるイギリスのKFF、Rogersなどのスピーカにもサポーターといえた。

アンプはマーク・レビンソンのプリアンプとパワーアンプにも惚れていて、

ずっと愛用されたと思う。SAEのパワーアンプは手放されて、

マークレビンソン 25Wのパワーアンプを4台でブリッジ接続で

100W+100WでJBL4343をドライブされていた。

 

私は新築された豪邸に、新製品を度々持参して、聴いて貰っていた。

そうしての折り、瀬川さんは、帰り際に、“尻の状態が良くないので、

これから、漢方治療に行く”といわれていたので、わたしは親類に医者が多いこともあり、

”病院に行って、検査したほうが良いですよ!”と、ついそういってしまった。

このような状態は1年近く続いていたと思う。

 

そうして、瀬川さんが入院されたとの報があった。

S字結腸ガンで手術されたということであった。

退院されて、お会いしたがげっそり痩せてやつれていた。

サンスイでは、瀬川さんの工業デザイナーとしての手腕を買って、

レコードプレーヤSR−929のデザインを依頼した。

ピアノフィニッシュの価値感のある格好になっていた。

また、しばらくして、豪邸を手放してお一人になられ、オーディオ機材も整理されたようであった。

そして、再入院になり、帰らぬ人となった。

喪主は、サンスイ・デザイン部の義弟S氏が勤めた。

確か、享年47歳の若さだったと思う。

 

もし、瀬川さんが存命であったなら、オーディオ界は、もう少し活気を呈していた

と言う方は少なくなかったと思う。

最近、聞いたことであるが、友人には、瀬川さんは、“俺の人生は破滅的!”

と言っていたそうである。

亡くなって、かなりの年月が流れた。けれども、あの熱い文章は忘れられない

オーディオファイルは多いと思う。

 

瀬川さんはどのようなサウンドを好まれていたのであろうか?

少なくとも、ツヤがあり、実在感があり、ダイナミック感があり、

また、しっとりしたサウンドではなかったかと思う。

瀬川さんがコンサートに行かれた話は聞かないので、オーディオ的サウンドを

極めた方ではなかろうか。

 

その情熱溢れた文章は、今、残された文章(ステレオサウンド誌がメイン)を

再度、読み直しても、感動を覚える。

▲△▽▼

瀬川冬樹氏は私がオーディオに興味を持ちだした頃はまだ健在で、

盛んに評論活動にいそしんでおられた。

彼が亡くなったのは82年、私が初めて迎えた「高名なオーディオ評論家の死」

だけに特に強く印象に残っている。

 瀬川氏の評論の特徴は「文学青年的繊細さ」あるいは「女性的感性」で

綴られたきめ細やかな文章にあるだろう。

 

音楽を聴いているその間、刻一刻と様々に表情を変えていく音そのものについて、

瀬川氏はきめ細やかな、そしてやさしい言葉で描写を試みておられた。

意識の表層に次々に捕らえられた数々の音の美しさを綴った文章は、

その対象と同じように美しいものとなって読み手の意識に自然に流れ込んできたものだ。
 音楽評論の立場で音楽を文章化するのに誰よりも成功したのが吉田秀和氏だとすれば、

オーディオ評論の立場でそれをなしとげ、詩情までも織り込むことができた唯一の例が、

瀬川冬樹氏だと言えるのではないだろうか。

 

 文章の繊細さと同じように、実際に瀬川氏が鳴らしていた音についても、

かのタンノイオートグラフを愛好し「アンチJBL」の筆頭だった五味康祐氏が、

瀬川氏の鳴らすJBLのシステムを聴いて、

「自分と同質の鳴らし方をしているこの青年の努力は、

抱きしめてやりたくなるほどいじらしい」と評したのは有名な話だから、

おそらくは繊細極まりない音が響いていたに違いない。

 

 瀬川氏と言えば JBL4343 が印象に残っているが、

本来はアキシオム80ロジャース系 BBCモニターの音

、つまりはブリティッシュサウンドを好まれたようなので、

いわゆる「ジムラン」時代の家庭用システムの豪放さにはそれほどひかれず、

ユニットとして使うことはあっても完成したスピーカーシステムは

43シリーズのプロフェッショナルモニターになってから、

その繊細さと迫力が両立した音に惚れ込まれて導入されたのではないだろうか。

事実「4341以降はぼくの求める音の範疇に引っかかってきた」という表現を

最晩年の文章の中でされている。

 

 タンノイとJBLと言えば、日本ではいまだに2大スピーカーメーカーとして評価されているが、

日本にタンノイを根付かせたのが五味康祐氏だとすれば、JBLに関しては

「岩崎千明氏が種をまき、瀬川冬樹氏が実らせた」と言えるのではないかと思う。

 この三氏が活躍された頃は、オーディオにまだ実現可能な夢や希望が残っていた

本当にいい時代であった。

 

これから先の時代には、はたして新しい夢と希望は生まれてくるのだろうか?
http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/faraday/nl/0060.htm


▲△▽▼

我が、蹉跌のオーディオファイル#01.現装置にたどり着くまで
http://audio-file.jugem.jp/?eid=27

終戦直後、まだ音楽など聴く余裕は我々国民には無かったが、

当時レコードといえばSP、若い諸君にはピンと来ないかもしれないが、

78回転でぶんぶん回るレコード盤に竹や鉄の針で音を拾い、

ザーザーいう雑音の中から音楽を聴き分ける。超アナログの世界しかなかった。

片面の演奏時間はせいぜい5分だから、頻繁に裏返したりレコードを換えたり、

とてもじゃないが落ち着いて音楽を聴いては居られないのだが、

この時代にはこれしかないのだから、それを特に不便とも煩わしいとも思わず、

音楽鑑賞の妨げになるものは何も感じなかった。

適応とはそういうもので、より便利なものを知りさえしなければかなりラフな 環境にも

人間はちゃんと順応するように出来ている。

アマゾンやボルネオの密林深く住み着いた人々を不幸と思うのは

文明(と云っても多寡が知れているが)の中に居る我々 の思い上がりと勘違いでしかない。

我家にも数枚のSPと電蓄があった。

 

ワインガルトナー指揮する第9もその中にあり、8枚組だから第9一曲聴き終わるまでに

16回立ったり座ったりしなければならなかった。
だから滅多に聴くことはなく、その分聴いたときの感動は何時も新鮮だった事を覚えている。

その後 SP から LP時代に移行した
レコードは一気にステレオの世界に突入した。

 

巷ではコンソール型ステレオが発売され、やがてコンポーネントステレオで

自由に機器を組み合わせることが出来るよう になった頃から

今迄は極限られた少数の音キチという奇妙な人種が次第に一般化し始め、

互いの持ち物に羨望の眼差しを向け合い、

電機メーカーと提灯持ちのオー ディオ評論家達の巧みな話術に乗せられ、

悲惨な出費をする者が多発した。

僕がこの人たちに担がれてこの世界に巻き込まれたのは昭和48年だった。

オーディオ評論家を信用しなくなったのは彼らが異口同音に誉めちぎる JBL の

がさつな音に起因するが、

それはさておき、その1年後にはVITAVOX(ヴァイタヴォック ス)CN191、

Machintosh(マッキントッシュ)C-22、MC-275、MARANTZ(マランツ)10B,TEACの

オープンデッキに換わった。

 

昼はレストランで御飯だけ頼み、塩をかけて食べた。

やがてマッキンのブワブワした音が気になり始め、色々物色したけれども、

これといったものに当たらず、ものは試に本郷の小さな新藤ラボラトリーに

飛び込んで実情を話すと、答えは明快で、C-22 と MC-275はそういう音なのだと云う。

VITAVOX CN191もオリジナルその儘では低音がぶわつく傾向がある。

「だからお前は悩むべくして悩んでおるのだ。お気のどくなことだ」だと。

そう云うかい。

 

ならば買おうじゃないか。

ということになってこの新藤ラボラトリーの アンプを買った。

それにプレイヤー装置は Garrard(ガラード) 301とOrtofon(オルトフォン)RMG309と SPU-A。

ご飯が小盛りになった。それから35年このシステムを持ち続けた。

このシステムで鳴らすレコードの音は一つの完成をみている事は確かで、

大概何処の音を聴いても羨ましいと思ったことは無かった。

この35年の間に、オーディオ界はデジタル時代に突入していて

今やレコードなどはすっかりCDに駆逐された。

 

しかし断言してもよいが、その現在にあってまだ、CDの音はレコードの音に遠く及ばない。

我家にあったSPの第九をCD化したものがあったので過日買い求めたが、

雑音だらけのSPの方が 遥かに音楽的なのに吃驚したことがある。

それ以来CDはずっと敬遠してきた。
http://audio-file.jugem.jp/?month=201007


40年前、オーディオの世界ではJBLが半ば神話の世界に入っていた。

そしてマランツとマッキントッシュ。

オーディオファンの間ではこれらでなければ世も日も明けない一時代があった。

アルテックも、JBLと並ぶ大ブランドだった。

一度ブランド品として名が売れて仕舞うと後は楽チンで、一定期間は黙っていても売れてゆく。

音楽などは二の次で「何を聴くか」よりも「何で聴いているか」が一義的な問題であったようだ。

VANジャケットが自分に似合うか否かは二の次であったように

「何で聴いてるんですか」

と聴かれて

「JBLです」

と小鼻を膨らませて答えなければ格好にならなった。加えて

「アンプはマッキンです」、

「私はマランツです」

と答える事が出来れば大得意の満点であったのである。

そう、マークレビンソンという腐れアンプもあったが、今日では「LINNです」

と答えねばならんのだろうか。
今、「JBLです」と答えるマニアは随分減ったのかもしれない。

 

でも換わりに「LINNです」と答えなければならないのなら心理的レベルは

進歩していない事になる。

どうあれ、カリスマ的な目玉商品を人々に印象付ける事が出来れば

流行を造る事が出来る。

 

2007年以来、LINNはネットオーディオを引っ張ってきたというから、

ならば日本の業者や提灯持ちの評論家がカリスマに祭り上げたということかもしれない。

そのこと自体ちっとも悪い事ではないし、ネットオーディオも面白いから寧ろ歓迎すべきだが、

アンプ一個が数百万円、プレイヤーも数百万円。何から何までLINNで揃えたら

軽く1000万円を超えるという事になると、ウェスタン並みのバカバカしさである。

 

35年前、僕はぷっつりオーディオ雑誌を読まなくなった。

参考にならないからであったが、余りに過激な人達が登場して、

全員揃ってパイプを咥えている姿が気持ち悪くて見るのが嫌になったのである。
表現が違っていても云う事が全員同じであるところも気に食わなかった。

一人が誉めると全員が誉め、貶すと全員が貶す。

そいう事なら評論家など一人で充分だったと思うが、

当時はこの仕事が金になったのかゴロゴロいた。

 

一人の評論家がJBLを誉めると数人の評論家が異口同音に誉めちぎり、

其れを読んだ読者が揃って JBLを求める。

僕も私もJBLという構図が簡単に出来上がる。

斯く云う僕だって僅か半年の間だったとはいえ、一度はJBLを手にした事がある。

今年の7月になって、僕は35年ぶりにオーディオ雑誌を読んだ。

評論家のメンバーはすっかり代って往年のパイプオジサン達は一人も登場して来ない。

代って彼らの子供か孫くらいの年齢と思しき若者達が評論家として登場している。

 

それにしても、昔も今も評論と云うのは何故あんなに表現が難しいのだろう。

まどろっこしいと云うか、解読には随分な苦労を強いられる。

うっかりすると結局何を言っているのか解らない事もある。

権威付けでもしたいのなら阿呆な話だ。
http://audio-file.jugem.jp/?eid=27

 

食べる為の歌と好きな歌は違う と同じ 憐憫