江戸時代初期の儒学者、山崎闇斎山鹿素行林羅山、らは、中国の王朝は革命によって倒されるが日本の王朝は長く続いていることから、日本こそが真の「中国」であると主張し「百王一姓」の考えが生じた。(中国の儒教思想は徳を持つ人物が王となることを正統と見なす。不徳の王は革命によって倒される。)

江戸後期の儒学者・林述斎は「全唐詩逸序」(文化1年、西暦1804年)に、革命で王朝が交替する中国に対し「我が東方は即ち然らず。百王一姓、日月悠久、風淳俗朴にして、事は皆な古を師とす。」と記し、また儒学者・広瀬旭荘は『九桂草堂随筆』(安政2-4年、西暦1855年-57年)に「京を見ざれば、我邦の 百王一姓、万国より尊きを知らず」と記した。

慶応3年(1867年)10月、岩倉具視は、「王政復古議」に「皇家は連綿として万世一系礼楽征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。これが「万世一系」の語の初出である[注 1]。 「万世」とは永く天皇の御代が続くこと、「一系」とは皇統が一本の糸のように繋がっていることとされる[2]

明治9年(1876年)に「元老院」(元老院議官)により第一次憲法草案であり女性天皇を容認する『日本国憲按』が作成された。民間でも私擬憲法が盛んに作成された[注 2]。明治15年(1882年)の新聞討論では女帝論と男帝論が論じられ、数の上でほぼ互角であった[4]

伊藤博文は明治17年(1884年)3月に宮内省に制度取調局を設け同長官に就任し男系の者がいなくなった場合に女系の皇位継承を認める『皇室制規』が作成された[注 3]。しかし井上毅は『謹具意見』で男系継承を主張した[注 4]

伊藤博文は天皇を男系男子に限定する根拠として皇室典範義解[5]で以下の項目を挙げた。

  •  和気清麻呂が宇佐八幡宮の神託を奏上したことから「君と臣との分」により必ず皇統から選ぶこと。
  •  初代天皇から32世の間は女帝を立てた例がなかった。
  •  神功皇后は女性のため天皇に即位しなかった。
  •  推古天皇など女性天皇の例はあるが、これらは一時的な措置な「つなぎ」であり範とすべきではない。
  •  皇統にして皇位を受け継ぐ者は必ず一系に限り、分裂してはならない。南北朝時代は変則的なものである。

これにより伊藤博文は明治22年(1889年)『(旧)皇室典範』制定に際し以下の3項目を皇位継承における万世不変の大原則と主張した。

  •  1.皇祚を踐むは皇胤に限る。
  •  2.皇祚を踐むは男系に限る。
  •  3.皇祚は一系にして分裂すべからず。

しかし過去の女性天皇は数々の大きな業績を挙げており「つなぎ」に過ぎないという評価については、現代の歴史学において否定する意見もある。

また宇佐八幡宮は道鏡を天皇にすべきか否かで2つの「神託」が有り、意見が分かれたものであるが当時、道鏡は民間の男系男子・皇孫と考えられてた[注 5]。皇室の血統であっても民間人を天皇にすることが拒否されたと考えられる。

神功皇后は過去には天皇と見なされていた[注 6]。過去の天皇の称号は時代により恣意的に扱われている。

初代天皇から一定期間の天皇は神話的存在であり実在性は低いと見なされている。

南北朝時代は複数の系統であったが政権が分裂して争うことは歴史的に普遍的な出来事である。ただし「万世一系」というイデオロギーには合致しない。

大日本帝国憲法では次のように記された。

大日本帝国憲法では次のように記された。

第一條
大日本帝󠄁國萬世一系天皇之ヲ統治

当初案では男系の者がいなくなった場合容認されていた(『皇室規制』)女性・女系天皇は廃され、天皇は完全に男系男子に限定された