山田町船越半島には6つの漁港があり、そのひとつ小谷鳥(こやどり)漁港と、その集落は壊滅的な被害を受けました

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連れていくので、一緒に来てほしいと言われ、私たちは後ろをついていきました
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前回来た時、道に迷って辿りついたとこが、ここ小谷鳥地区だったのです
その時の光景を忘れません・・・。
他の津波の状況と明らかに違う!
波に全てをさらわれ、瓦礫がなかったのです 
集落が丸呑みされてしまった村
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ここは避難所指定されていた集会場跡です
聞いた話によると、地震警報がなり、みんなここに逃げてきたそうです
警報がなったとき、もう既に辺りは壊れるような音がしてた
大人子供含めて15人が避難していましたが、避難所まるごと波にさらわれてしまい、その他2人が行方不明だとのこと
線香をあげ、お米とお供え物をし、行脚をし始めました
沈黙の時間が流れましたが、区長の野田光照さんが口を開きました

『あの人は、佐藤さんといってね、奥さんと娘、孫3人、計5人流されてね・・・。』
『あの若いのが川村さん 親父さんと一緒に逃げたが、親父が早く上に逃げろ!って下から大声で叫んだから上に逃げた 振り返ったら親父さんはもういなかった たった、3~4メーター下にいただけなのに・・。甥っ子と兄さんもダメだった』

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暫くの間じっと海を見つめてた
全員がじっと悔しさや悲しみを堪えているのが痛いほどよくわかった
自分の目の前で最愛の人を失っている

今、自分が立っているこの場所で、沢山の人が津波にさらわれた
もがき苦しんで、生還した人の話も聞いた
波に巻かれ、上か下か分からなくなったけど、明るい方を目指しとにかく手ごたえあるものにしがみついた
それはガードレールだった
金属の棒が肋骨を貫通し、痛みに耐えながらも、必死に手を離さなかった

そこにいた誰もが苦しみを味わっていた

自分だけがその苦しみをしらなかった
苦しさを共有することは出来ない
でも、一緒に涙を流すことはできる
言われなくたって涙は溢れでた


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実際の川村さんの話を発見
誰かがブログで紹介していました↓
http://blog.goo.ne.jp/uebunokiji/e/5185e024515097ccc7fbbcec0c39e3f2