The Nonsense
Amebaでブログを始めよう!

irir

心的動機づけの文字配列の不思議さ

日本語ではいろいろ言い回しがある だから日本語は自由な表現ができる言語であって自由な言い回しが可能な言語である

ーなんてことが考えられがちである

たしかに自由さはあります
その証拠に古典文化に見られる短歌や俳句といったことばをつかって遊ぶ芸術なんかでは 少ない文字数ながらも文字数以上の世界観を目の前にひろげることができる

一方で日本語以外の言語でいえばアルファベットの配列に始まる単語の規則性を持つ配列によって言いたいことが表現される

シンプルな規則でありながらその組み合わせはほぼ無限大ともいえるかもしれない

しかしながら日本語ほど自由な言い回しができないとも言えるのかもしれない
と思われるのかも知れない

というのも日本語でいえば
です、ます、る、だ のような文末の変化をつけることで言いたいことについてフォーマルあるいはインフォーマル加減をえらぶことができる

それだけではなく時代、あるいは独自性からの派生により
~だっちゃ、~っす、~だよーん
のような言い回しができる

外国語、英語に代表されるbe動詞における位置に上記のようなことがあてはまるとこんにち考えられているが
be動詞が果たして 上記のような言い回しをすることが可能か否かと聞かれた際にこたえにつまるのかもしれない

このような面からして 日本語は自由な言語といわれるのは たいていのひとならうなづくのかもしれない


さて、日本語の自由な言い回しが場合に応じて心的動機を生み出すことは経験上すでに既知であるのかもしれないが
果たして 日本語以外における言語の心的動機付けとは存在するのか、あるいは存在した場合どのような条件下で働くのか
という問題に直面するのかも知れない


そもそも日本語における自由さを 外国語も同様に持ち合わせているのか という議論にさえ至るのかも知れない

外国人同士が会話中にその会話のなかでなにをきっかけとして心的動機付けが動かされるのか

徒然草

ここ一週間接客業をとおして、誠意ある対応をお客さんに対してする事が、いかに大切であるのかということを学んぶことができました



ということでこころを入れ替えてやります!








ニーチェの永遠回帰とはつまり、
運命には逆らえないっていうことで解釈していいのだろうか

歴史を振り返って、この時間は自分にとってよかったけど、この時間は後悔してる、だなんて思ったら、
自分にとってよかったじかんを歴史の中で認めるならば、後悔したじかんも認めなさい、
って言ってたはずだから、過去に起きたあるいはこれから起こるそして今起きている事象について、一切の干渉が許されないと言うことなんだと思います



運命には逆らえないなら、社会的ステータスなどはたとえ努力したとしても、または努力虚しく結果が出ない状況のままであったとしても、ひとこと、それは運命ですから、といわれるのかもしれない



つまりは『努力して』が『運命』ただひとつで片づけられてしまうこと



ニヒリズムに満ちた世界、万人の共通意識としてニヒリズムがあるとしたら、世界はどうなってしまうのだろう

三善晃

レクイエム(1971) の衝撃は当初予想していたものをはるかに越えていた


怖ろしかった......