東方茶園

東方茶園

思い立ったが吉日。
しない後悔よりした後悔。

Amebaでブログを始めよう!
1/27、28に観劇してから、ぽちぽち書いていたのだが、書いては消し、書いては消し、いい加減まとめようかな、と諦めたのが昨晩でした。


内容に触れているのでネタバレ回避したい方は読まないでください。

超絶辛口なので、そういうの見たくない方もご遠慮くださった方がいいかも。


当たり前だけど、これは劇評でも何でもなく、ただのトニファンな個人の感想です。



さて。

大前提として、正直、期待というか、「わあおトニ三人舞台!楽しみたのしみー!」という気持ちがなかったところから、私はスタートしている。
所謂、あて書き、が、嫌いなので。

ハードルが低かったからか、さほどの嫌悪感(笑)はなかったのが救い。

ただ、どうしてもわからないというか、なんでこうなったのか理解に苦しむんだけど。

ごめん。
トニセンが何をしたかったのか、わからんのよ。

三人で作品を作りたかったんだよね?
今、この歳になって、改めて三人で創りたかったんだよね?
…そもそも違ったらごめん(笑)。

私が「わからない」のは、込み入ったストーリーがどうのとか、三人のキャラクター設定がこうのとか、そういう話ではなく、
「舞台として、どういう作品に仕上げたかったのか」が、わからなかった。
見えなかった。

結局、トニセンのファン(またはブイのファン)しかターゲッティング出来なかったの?
それが本意なら、それでもいい。私の知ったこっちゃない。

でも、本当に、そんな狭い世界を相手にしていたの?
40歳を越えて、アイドルの枠を超えて各方面で、やりたい事や、挑戦したかった事を頑張ってやってるあなたたちが、本当にやりたかった作品がこれなの?


…だんだん説教くさくなってきた(笑)

要は、
「あなたたちなら、こんな中途半端なものより、もっと幅広く奥深い、長いキャリアで体得したスキルを発揮して万人に訴える力を持った作品を創れるんじゃないの?なぜそうしなかったの?」
という、全くもって個人的で自分勝手なやり場の無い怒りと悲しみ。

ええ、身勝手なファンです。

ただ、ただ、
「ええええええこんなのなのー……もったいない…もったいない……」
という、気持ち。


なぜそう思うかというと。
例えば、二年前にトニセンが主演したミュージカル『ON THE TOWN』。
ブロードウェイ作品で、楽曲もバーンスタインの難曲。共演する女優陣はなかなかの演技者たち。
あの時はきっと、長年連れ添った(笑)三人とはいえ、いい緊張感の中で準備をして、よい仕上がりになったと思う。

あの時のような、いい意味での緊張感が、あまり感じられなかったんだなー…。
内輪な感じがあまりにゆったり漂いすぎていて。



…とまあ、こんな感じで。

正直、がっかり感の方が強かったのだ。


そりゃあ、慣れないマウスピースを唇に押し付けてホルン吹いてるひろしはホルン吹きの自分から見ても全てを差し置いてちょうかわいかったわよ!!
マダムに扮した時の指もキレイだったわよ!
全編にわたって弟モード満載のよっちゃんだってかわいいし!
ひろしにアゴで使われる係の不憫なさかもとさんもちょうかわいかったわよ!!

でも!
そんな「かわいいーヾ(*´Д`*)ノ゙」だけの作品を観たかった訳じゃないんだ…。
ほんとに本当に、私の勝手な気持ちだけど。




出来れば、願わくば、
楽曲メインなら先日の「Covers」みたいな質の高いLiveを。
演劇ならあまりユルさを前面に出さないストイックさを感じられるような作品を。
次は期待したいところです。


あくまで個人的な希望ですけれどね。

昨日(6/5)、4月から始まった全国ツアー公演を終えた「Forever Plaid 2016(以下フォエプラ)」。
2013年の日本版初演時にもかなりテンション高くあれこれ書いてたのだけれど、その先代ブログとほぼ同じ論点(?)になるのを承知のうえで、改めて書いてみる。
また数年後、プラッズ&エバリーに会える日までの自分メモ。


毎回…ええもう中毒患者なので、再演にもかかわらず可能な限り劇場に通いましたが…毎回浮かぶ「これはミュージカルなのか?」という疑問。
確か初演の時は思わず「ミュージカル」って単語をWikiで調べた(笑)
ブロードウェイとオフ・ブロードウェイの違いもわからなくて調べたのも、確かその時。
結局、そんな定義はどうでもよくて、ミュージカルでも演劇でもオペレッタでも、オンでもオフでもいい。

私にはフォエプラが、ただただひたすらに愛おしい。

恥を忍んで告白すれば、初演から再演にかけて、観た回数は20回をとうに超える(恥)。
それでも、いつも同じところで笑い、泣く。

関西でいえば、吉本新喜劇みたいなものか(笑)


毎回笑い、感動する理由を、初演の時は、作品で語られる「音楽への愛情」だと思ってた。
何かと言えば、一番わかりやすいのが終盤のフランシスの長い名台詞。

「美しいハーモニーに身を置き、永久不滅のバイブレーションを構築していると感じるのは、地球上、いや宇宙中のどんな感覚にも勝る『気持ち』なんです」

「完璧な和音。完璧な瞬間。誰にだってそれを求める権利はある。そして僕らはそれを十分すぎるほど味わうことができた」

…言葉が正確じゃないのはごめんなさい。
概ねあってるはず(苦笑)

フランシスの言う「感覚」や「気持ち」は、音楽をやったことがある人ならそれこそ「肌感覚」でわかるんじゃないかな。
少なくとも私はそうだった。
その難しさと、得難いからこそ、そこに到達した時の「強烈な興奮、快感」。

一曲一曲歌い終える度に、プラッズは大袈裟なまでのリアクションと弾ける笑顔でその興奮を観客に伝える。

だからこそ、2時間弱のショーを終えて、改めて本当に人生が終わってしまうことへの後悔が劇場全体を覆っていったのだと。

その感覚は再演でも同じだった。



でももう一つ、初演の時にはあまり感じなかったもう一つの理由が今回は見つかった。

彼らは「死んでいる」ということ。

フランシス曰く「(死んでるなんて)スパーキーみたいにズケズケ言えない」って笑わせるシーンがあったけど(笑)、彼らはデビューする前に不慮の事故で死んでしまった「死人」だ。
「僕らはアメリカの新しい音楽の最前線にいました。(中略)だから僕たちだって、成功したに違いありません」と、スマッジが言うけれど、でも彼らの命は既に終わっている。
過去は変えられない。

人生、うまくいかないことや思い通りにいかないことの方が多いはずなんだ。

おもしろ楽しいショーを続けてきた最後、いよいよフィナーレという時に、突きつけられる現実。

そういう意味では(これは日本人だけの感覚かもしれないけど)、エド・サリバンショーで最高に盛り上がった後、小休止を経て、物語は終盤に入るけれど、エド・サリバンショーの「日曜の午後8時」というのが、実に切ない。
日本でいうところのサザエさん効果?症候群?だっけ?
日曜の夜になると月曜からの現実が迫ってきて鬱々とする感覚。

物語の終わりは、彼らが死者に戻ることを指すわけで、これ以上辛い現実はないと思う。

どうしようもない現実は、あるんだ、という「現実」。


この、現実が突きつけられる終盤のシーン(「シャングリラ~文無し」と「愛こそすべて」の間)が、初演と今回とで大きく違っていたように見えたのは気のせいかな?

細かい演技演出の変更もあるだろうけれど、役者4人がそれぞれ、前回以上に、その役にのめり込んだのかな、という気がした。

スマッジが引用する小説の一節「汝、再び故郷へ帰れず」の重みが違って見えた。

更に言うならば、開演からずっと、コメディ部分は「本当に大丈夫なの?!」と本気で心配になるほど自由にメーター振り切ってはしゃぎふざけ、一方のハーモニーは格段に良くなってた(失礼…でも良いことなので正直に書く)
ひろしの音程が合ってるなんて!(こら…良いことなので正直に書く)

だからこそ、その反面、やがて来る現実の重みがぐっと増したのかな。
そうなんだと思う。



……という感じで。

今回の再演。

こんなに見事な再演はないと、感動しきりだったのです。

大千秋楽のカーテンコールで壮麻さんが言ったように、キャスト、バンド、スタッフ、オーディエンスの皆がこの作品を愛しく思っているからこそ。
ひろしが言ったように、役の枠を越えてしまう良いカンパニーを作れたことが成功の理由だろうし。
だから、毎回、慈英さんが言ってくらるように「プラッドタキシードが赤いちゃんちゃんこになるまで」演ってほしい。
充さんが言ったように、人間誰しも、誰かを支え支えられることで成し得ることがあるのだから。


フォエプラに4人が欠かせないのと同じで、バンドはエバリーさんでなきゃいけない。
松尾兄弟氏の優しいやさしいバイオリン&ピアノ、小向さんの色っぽいベースが私は大好きだ。

そして、岩崎廉さんにはまた、更なる高みを目指すべく、ジューサーミキサーハーモニースクールの教官として(笑)携わってほしい(ひろしをよろしくお願いします。)


わたしはただのひろしファンで、彼が出演していなければこの作品には出会わなかった。
出会わなければエバリーさんを知ることもなかった。

素敵な縁に、感謝。
また、3年後くらいに再会したい(笑)





追記

それにしたって、今回あのふざけっぷりは酷いよね(笑)
セグウェの発音しかり。
スペイン語リピートアフターミーしかり。
校歌斉唱のジンクスしかり。
クリスマスアルバムぐるぐるしかり。
とうとう呪いの五寸釘まで(笑)

そんなプラッズが大好きです。

ありがとう。

いい夢でした。(byスマッジ)

さて。
『エヴェレスト -神々の山嶺-』です。

公開してまだ数日ですが、思いっきりねたばれしてるので、嫌な方は読まないでください。
私は違法行為でなければ書きたいことを書きます。
あしからず。










いつ頃だったかな、おととしの年末か去年の頭だったかな?
オカダが映画の撮影でエヴェレストに登るという情報が流れてきたのは。

原作ぜんぜん知らなかったし、内容がどうのこうのはさておき、オカダがエヴェレストに(山頂ではなくとも)登って撮影したとなれば、そんなに頑張ったなら絶対観なきゃ!と、その時素直に思いました。


また、原作は残念ながらあまり好きな作家氏ではなかったので、読みませんでした。

あ、この点は強調しておきたい。
私は原作を読んでいないので、原作との相違云々はわかりませんし、問いません。
あくまで映画作品としての視点でしかみていません。

なぜ、そこを強調しておかなければならないかというと、正直なところ「なんて中途半端な話なんだ…」っていうのが率直な感想。
それがたとえ、「原作の壮大さを映像で表現しきれなかった」とか「長大な物語を2時間で収められなかった」など、原作ありきの視点からの、いろんな意見が出てきたとしても。
でも。
でも、もしそうなのだとしたら(あくまで仮定)、それはそれで映画としてはダメでしょ、と言いたい。

だって、予習が必要なら、それは映画作品として成り立たないよね?
……と思うのです。


なので、原作との関係は一切無視して、話を進めます。



もとい。
「中途半端」なんだなー……。
この物語のどこが一番のポイントかがわかりにくいっていうのと、もしくはポイントがあるなら(いや、あるはず)そこに焦点があたるように描くことは、決して無理ではなかったんじゃないかな?と感じるのです。
せっかく現地で貴重な撮影をしてきたのに、その使い方じゃないのかな?という印象をもちました。映像については素人なので勝手なこと言ってますが。


そもそも、一番のポイントがすごくわかりにくかった。
わたしの理解力不足なのかもしれないけど。
その点については、観客の視点を深町に集めるのか、羽生に集めるのか、絞った方がよかったんじゃないかな?とも思います。
いっそ、元カノ(涼子さん)ももっとさっぱり描いてもよかったんじゃないの?彼女にとって二度目のエヴェレスト行きって、必要なかったんじゃない?とさえおもった。

だからなのか、羽生の言動や感情は終始一貫して見えたけど、深町がぐらぐらしすぎてたような。
っていうか、正直、彼の行動には常に「???」がつきまとう。
何といっても、彼の三度目の登頂に、共感できないのです。

たいてい、変人(悪い意味でなく)キャラに対しては、理性と感性、どちらかに共感、もしくは嫌悪感を覚えるものだと思います。
深町については、理性でも感性でも「わからない」のです。
共感も嫌悪感も感じにくい。

それが、オカダの演技力によるものなのか、そうでないのかは、未だに判別しかねるところ。

なので最初、オカダの演技が悪かったのか?という仮説をたてました。

でも、ラスト近く、あの、あの怖いこわい羽生さん(ごめん・笑)が出てくるシーン。
深町に羽生が「憑依した」と思われる直後の深町の顔が、めっさ怖かった。
あの瞬間だけは「オカダすごい!」と素直に感動した。
こういう演技は上手いんだな……と改めて思い出した(笑)。
ほら、大河ドラマで「本能寺の変」やった時のアレみたいな(笑)。

決して演技だけが原因じゃないのかなー、と思い直し。

その、件のシーンもそうですが、どう考えても「余計な台詞が多くないか?」という第二の仮説を立てました。

阿部寛にしてもオカダにしても、オノマチちゃんにしても、十分「演技」で見せられる人たちだと思うのに(ついでに言えばかざぽんも同じく)、なんでそこで変なモノローグはいるの?!ってツッコミを何度も入れました。

それ、モノローグなしで俳優の演技だけでも出来るんじゃないの?
モノローグのせいで、ものすごくシーンが陳腐化したところ、いくつかあったように思います。

それと、シーンとシーンがぶつっ、ばしっ、と音を立てて切り替わるような構成…。
金曜や土曜の夜の2時間ドラマじゃないんだから……。
もうちょっと意味のある(もしくは意味を含ませるように観客に見せる)構成というか編集というか、できなかったのかなー。
そこから「中途半端さ」とか「安易なエピソードの繋ぎ感」に繋がっちゃったんじゃないのかなー。


総じて、編集とか脚本とか、もうちょっとなんなかったのかなー……という残念感が残りました。

なんか、せっかくいい素材(映像も役者も)揃えたのに、煮込み方が足りなかったのかな?と思います。



うーん。

残念。

つくづく残念。






最後にどうでもいい感想。
かざぽんが何の役で出てるのか全くわからなくて(調べてもいなくて)、どこで出てくるんだろうってわくわくしながら観ていました。

で、出てきた途端、「あーこれかざぽん絶対すぐ死ぬ」って思ったら本当にそのとおりだった…。
かざぽん、岸くん役が似合いすぎてた(笑)。

そしてその後、彼の「妹」としてオノマチちゃんが登場するんだけど、かざぽんの可愛さとオノマチちゃんの男前さが際立って、もうずっと脳内では「姉」扱いしてた(笑)。
ごめんね(笑)



基本、事前情報はあまり入れずに観る派、ですが、「焦点を絞った展開」と「監督 ダニー・ボイル」ということで、想像しうるジョブズの伝記映画ではないんだな、という心構えは持って劇場に行きました。
あ、ファスがかわいい、っていう情報だけは持ってた(笑)


さて。

不快といえば不快な作品(笑)。
それもかなり。

どなたかのレビューにも書いてあったけれど、嫌な奴ばかりで、皆が知っているジョブズはここにはいない、と。

でも、私(たち)はジョブズのダイジェストを観たい訳じゃない。
ダニー・ボイルとファスのジョブズが観たかったんだ。

さてさて。
彼は間違いなく前世紀最後の天才のひとりでありイノベーターだけれど変人だし、パラノイアでもあった(医学的な見解ではなくイメージとして)。
最大最高の変人(もしくは狂人)と、そんな変人と同じ時間を生き、彼の生き様を目の当たりにした、彼を取り巻く人との「関わり」に焦点を当てたのには「なるほどなー」と得心した。
前半なんて、主人公はもうリサでいいよ、って思ってた(笑)。

しかし、それにしてもうるさい(笑)。
最初から最後までうるさかった。
会話劇ともいえない口喧嘩の連続。

しかし、どれも傲慢なジョブズとの、とても解は得られないような応酬ばかりなのに、少しずつ違って、そして少しずつ似ている。
音楽でいうと、ダ・カーポを繰り返して、その度に指揮者の指示は速度だったり強弱だったりが少しずつ違って、3回目のフィーネでやっと終わる、みたいな、そんな感じ。
たぶん、曲を作った脚本のアーロン・ソーキンと、指揮者のダニー・ボイル、演奏する役者によって、予定調和的に作られた壮大な「不快感」(笑)。

不快感、嫌悪感。
そんなネガティブな感情ばかりぶつけてくるので、そこに感動はなくて。
何が残ったかというと、ジョブズと闘った「達成感」かもしれない。
ジョアンナが3回受賞したという「ジョブズと闘った賞」(うろ覚え)を、全観客にもあげてほしいw


……で、ジョブズとジョブズの人生に関わったウォズ、スカリー、あとアンディー(笑)、特にウォズはよかったなーって思うんだけど、ジョアンナとリサは本当によかったな。
リサかわいかったよ。
めっちゃ頭がよくてめっちゃ頑固なところはジョブズ譲りだから、やっぱりジョブズの娘でいいと思うな(笑)

ラストのiPodのくだりはちょっとサービスしすぎな演出じゃね?って思ったけど、観終ってマイスマホ(iPhone6)の電源入れて、リンゴのマークが出てきた時に、ちょっとじんわりした。
私はiMacが発売されても買わなかったし、PCはずっとWindowsだけれど、会社で貸与されておそるおそる使い始めた初スマホがiPhone4だった。
人間の「感覚」で操作する手のひらサイズのマシンが、世界中の人々の生活を変えたんだな、っていうことを実感したものです。

ジョブズの尊大なる偉大さに感謝。



ところで。
劇中に出てくるアラン・チューリングの写真がめっちゃイケメンで吹きそうになった(こら)
ベネさんよりかっこよかった…(こら)
取り敢えずこれだけ。


昨日観て感動したばっかりなところに助演男優賞オスカー!
マーク・ライランスおめでとうございます!!!


アカデミー賞については言いたいこととかツッコミどころとかいっぱいだけど、取り敢えずこれだけ。


本当に素晴らしい演技に満ちた作品だったのでみんな観てほしい。
大阪のシネコンでは昨日ラストだったけど、まだやってるところがあれば是非。