
めにみえるものが
せかいのすべてじゃない
その「さらにおく」に
こころをむけるんだ
くもりぞらの
「むこう(おく)」には
いつだって
たいようがかがやいているし
あざやかなそらが
ひろがっている
「こころ」を「せまくして」しまうと
‘ほんとうにだいじなもの’を
みうしなってしまうよ
ここ最近の気温の変化のせいか、またまた身体の痛みが戻ってきました(嬉しくねぇよ(;´д`))。
前回ほど痛みは激しくないんですが、シクシクと首から肩(脇の辺りまで)が痛む。
「こいつ」とは「ながーーい付き合い」なので、「あ、また来たね」という感じですよ(なんと呑気なf(^^;))。
「辛くない」っていったら嘘になりますが、嘆いたところでしかたがない。
「まだ生きている」
そんで
「まだ生きてやる」
そういう気持ちでやっていかなきゃ。
↑の「言葉」は、いつものごとく「なんとなくの言葉」です。
「言葉」自体はなんとなくですが、日常のなかで、時々思うことでもあります。
自分が見聞きしたこと・体験したこと…それらを「飛び越えて」、その「奥」に在るもの…そういうもんを「感じてみる」…。
例えていうなら…「空気」を「視る」ようなもんです。
空気をみることなんて、俺らにはできない…当たり前だf(^^;ハハハ。
でも、「空気」という存在は確実にそこに在り、それらによって俺らは活かされている。
だとしたら、その「見えないもの」に意識を巡らせることは、「必要ないこと」かもしれないが「無駄ではない」と、思うんです。
曇り空の向こう側にある、晴れた空を想像すること。
言葉の端々に覗かれる、その人の「心の内」を。
「必要ねぇな」と思う人は、それでも良いと思う。
知ったところで、「社会」の役には立ちゃしない。
でも、他の奴より少しばかりでも「己の‘心’を広げる」事はできるはずだ…
そう思うんです…が…
…考えすぎですかねf(^^;
明日一日、皆さんに良い「風」が吹きますように…(`人´)パシッ!!
読んでくれてありがとう
では、また。