もう一つのSTAP細胞事件
ノーベル賞候補だった笹井芳樹氏の自殺によってSTAP細胞問題は幕引きが図られた。
あの割烹着を着た小保方晴子騒動を覚えていますか。
笹井芳樹氏は、7通におよぶ遺書を書き残していた。
死の真相はどこにあったのだろうか。
「理研」は、笹井芳樹氏の辞表を受け付けなかった。「逃げずに腹を切れ」と宣告されたにも等しかったという。
国立研究施設の研究者は、笹井芳樹氏は理研幹部に意図的に葬り去られた可能性を示唆しているという。
この一連の悲劇は、理研の系譜を見ると雄弁に物語っている。
1917年に「財団法人理化学研究所」は、国策のために生まれた。皇室からの御下賜金や政府補助金などをもとに産業発展を目的に成立されたものだ。
日米開戦を前にした1941年4月、東条英機首相は「理研」に原爆開発を正式に依頼した。
この計画は、東京大空襲によって頓挫してしまう。軍部や理研では米国側でもウラン利用は当分できないだろう、と結論した。
ところが、その2か月後に広島は原爆を投下され灰燼に帰した。
そのことは「理研」幹部にとって大変なショックであった。研究者たちは、軍部や理研に対して、ウランの研究開発に遅れた責任をひどく感じていたという。「もう生きて顔向けはできない」と彼らは感じていた。
その「理化学研究所」は、先の戦争のマインドを引きずっていたのではあるまいか。
笹井芳樹氏の辞表が正しく受理されていれば、その後の笹井氏の自殺はなかったかもしれない。
やれやれ、どこへ行く日本。