2005年(平成17年)4月25日、JR福知山線脱線事故が発生する。
JR西日本の福知山線で発生した列車脱線事故で、乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。
この悲惨な事故をご記憶だろうか。
事故発生直後、近隣の住民、工場、市場など多くの人々が現場に駆けつけ必死の救助活動を展開した。
特に激突したマンションから10mほど道を隔てたところに西門がある「日本スピンドル製造株式会社」は、異常な衝突音に気づいた社員20名がすぐに現場に急行し、救出作業を開始した。
知らせを受け、工場から50mのところの事故現場を見た「齊藤十内社長」は、工場に取って返し直ちに全ての操業停止を命令、全社員(約270名)を食堂に集め、全力を挙げて救助作業に当たるように指示する。社員達(薄い水色の作業着の人たち)は、手に手にはしご、消火器、救急箱、バールやカッターなどの工具や道具をもって現場に急行した。
そして、助けを求め、うめき声を上げる人たちを励まし励まししながら確実に救出していった。負傷者は次々と助け出され、電車の座席などに横たえられ応急手当を受けた。
当初、電車が折り重なっていて主要現場と目されたマンション反対側が注目されていたためか、負傷者が集中したマンション西側にはなかなか救急車が到着しなかった。
そこで、日本スピンドルの社員達は、助け出した負傷者に応急手当をした後、自分たちのマイカーや協力工場の大型トラックなど計15台で病院にピストン輸送した。
その間、病院・警察・消防などに「事故発生、負傷者多数」を告げ、負傷者には「がんばれ!」「きっと助かる、大丈夫」などと励まし、声をかけ続け130人以上を救助した。その後消防、警察などレスキュー隊が駆けつけた後は、防災関係者の足手まといになっていはいけないと社員を引き上げさせたという。
見事な危機対応、見事な出処進退の采配であるといえた。天晴れを献上したい。