はじめてこのブログを書く。

 

1回目の記事がこんな内容になることも不本意だが、

この假屋舞さんという方の記事を拝読して、

思うところがあったので、
自分ごとをつらつら書いてみる。

 

 

おそらく同じ経験を持つ人は多いが、

自分ももれなく、

「自分は他の人と何かが違う」
「人とは分かり合えない」
という考えの一人だった。


 

子供の頃から集団の中にいることは常に居心地悪く、
特に思春期以降、
自分は不協和音のような存在だと思っていた。

だからこそ特別な何かを持つとも信じていて、

隣合わせの劣等感と優越感に溺れるようで苦しかった。


 

好きな人ができても、

いざ付き合うと相手の嫌な部分ばかり目につき、
もっといい相手が見つかるという甘い夢を持ち続け、

「この人ではない誰か」
「ここではないどこか」
を求める。


 

そして時々、
「これは!」と思う対象が見つかった時
周りが一切見えなくなり、どハマりする。


 

自分が目指す分野のスペシャリストな人との出会いは運命だと感じて、
その人に近づけば近づくほど世界が強烈な光を放ち輝きだす。

と、同時に、
これまで身を置いていた
身近な世界や友人たちは途端に色褪せて、
「今までの自分は間違っていた」と思い込む。

これから進むべき道が今度こそ分かったような確信が生まれる。


 

スピリチュアルにハマることはなかったけれど、
多分それは、自分の内側に目を向ける
そんな深さすらない浅い人間だったからだろう。


 

10代後半から25歳くらいまで、
ずっとこんな思考回路で、
態度にも現れていたので

他人から見ればさぞかし
嫌な人間だっただろうな、と思う。


 

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学費は親に出してもらって
大学に惰性で通いながら、
早くこんななまぬるい環境から抜け出して自立したい
と願っていたので、
社会人になれた時は、
解放されたかのようで嬉しかった。


 

働きたての頃は、

肥大した自己意識のせいで

同僚はもちろん周りの先輩ですら
自分より劣って見えて、
こんなくだらない仕事場なら
さっさと転職しようと思った。



 

しかし、である。



 

仕事を覚え、
責任ある仕事を任されるうちに、

周りが当たり前のようにできていることが

自分がこなせていないことに気づき始めた。


 

今までおごり昂っていたメッキが
どんどんはがれていくことは耐え難く、
これまで繰り返してきたように
「ここではないどこか」
に逃げたくなる。


 

それでも「自立したい」という意地だけで
耐えていくうちに、徐々に気づいたことがある。


 

「自分は他の人と何かが違う」

「人とは分かり合えない」のは、
私自身が、
他者への想像力が圧倒的に欠けていて、

自分への客観的な評価ができていなかったことに。

 

 

 

 

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さて、今の私のスタンス。

 

 

ある意味、
自分がこの世界において特別な存在ではあるが、
それは自分だけでなく他者も同様である。

自分の夢や人生と同じくらい、

他者にも大切な人生がある想像力は持ちたい。

 

 

一度、引き受けた仕事や

クライアントに伝えたことは

最後までやり通す責任を持ちたい。

 

 

一過性の情熱だけではなく

小さくても絶やさない炎を持ち続けたい。