ハリウッド映画に水俣病が描けるのか! | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 ジョニー・デップ主演のハリウッド映画に水俣病が描けるのかという疑念や不信がずっと私の中にあって,結局「MINAMATA」という映画は観ていないのだが,先日BS12のトーク番組(上の動画)で「MINAMATA」に出ていた俳優さんの話を聞いていて,やっぱり観なくて良かったと思った。

 

 この岩瀬さんという俳優さんは,「日本ではドキュメンタリー以上のものは作りづらく,いまだに被害者の方が生きている水俣病の場合は特にそうだ。だからこそジョニー・デップ主演でこの映画を作ったことの意義は大きい。デップの映画ということで世界の人たちに水俣病のことを知ってもらえる。エンターテインメントの力を感じた」という趣旨のことを話していた。

 

 私の嫌な予感は当たっていたような気がする。ハリウッドの大資本でトップ人気俳優を使ってエンタテインメントとして水俣病を描くことに,私は強い違和感を覚えていた。水道橋博士が番組の冒頭で「なんで水俣で撮らなかったんですか?」と質問すると,この俳優さんは50年前の水俣を現在の水俣で再現するのは難しいことと,お金の問題があって,東欧の国で撮ることになった,と説明していた。表向きの理由はそういうことなのだろうが,おそらく地元の人たちの強い反対があったんだと思う。ドキュメンタリーではなくエンターテインメントとして製作するとなれば,どんな風に脚色されて描かれるかわからないし,しかも権力や大資本に牛耳られたハリウッド映画会社なら尚更であろう。どれだけお金を積まれても,そんな映画は水俣で撮ってほしくない,撮らせない,見世物じゃない,再び分断・差別を持ち込むな,と水俣の人たちが思ったとしても不思議ではない。

 

 この岩瀬さんは,「いまだに被害者の方が生きているからエンターテイメントは難しい」と言っていたが,どういう意味なんだろうか。もし被害者が全員いなくなれば,エンターテイメントとして水俣病を撮りやすくなる,ということなのだろうか。たぶん,この人の中ではすでに水俣病は終わってるのだろう。だから,「エンターテイメントは素晴らしい」などと脳天気に言ってられる。だが水俣病は全く終わっていないし,その全体像はいまだ明らかになっていない。

 

被害者が,市民たちと「(もや)」を作り,被害者が差別されない,また自然と共生する地域社会を創造するまで,水俣病は終わらない。

(栗原彬編『証言 水俣病』岩波新書p.21)

 

 

 水俣を撮った写真家ユージン・スミス自身の伝記映画なら,ジョニー・デップ主演のエンターテイメントとして,まだ観ることができたかもしれない。だが,この映画はユージンの目を通して水俣病の世界を描くという点に主題があるようだ。あくまで水俣病の世界をエンターテイメントとして描こうとしている。そこに無理がある。この映画の感想や評判などを読んでみると,確かに水俣病の事実を伝えるという点ではそれなりに意義はあったのかもしれないし,そんなに悪い映画でもなさそうなのだが,だけど結局,「良い映画だったね」で終わってしまいそうな気がする。

 

 水俣病事件,水俣病問題とよばれる世界の出来事は,エンターテイメントや商業主義には馴染まない。今もまだ苦しみながら生きている人がいる。生者だけではない。不知火海の埋立地には,猛毒メチル水銀で皆殺しにされた人たち(死者),生まれることを拒まれた人間,これから水俣病を背負って生まれてくるかもしれない人間たち(未生の者)の魂が埋め立てられている。「良い映画だったね」と満足して済ませられる問題ではないのだ。

 

 水俣の海に生かされてきた,そういう人間たち(生者,死者,未生の者)の声に耳を傾けること,そして,そのひとりひとりの声から水俣病の世界に迫ること――そのような記憶の再生という人間的な営みを抜きにして,エンターテイメントも映画製作もあり得ない。ドキュメンタリー以上のものを作りたいのであれば,ドキュメンタリーを徹底して突きつめるべきだ。ドキュメンタリー以上のドキュメンタリーを作ることから,真のエンターテイメントもフィクションも生まれてくると思う。

 

 何でこんなことを長々と書くかというと,安易にお金の力で水俣病をテーマにしたエンターテイメント映画を作ることは,水俣病の記憶を修正し埋葬しようとする権力や資本の企てに加担する恐れがあるからだ。

 

 水俣病者の声は歴史的文脈の中で聞こえてくる。その歴史的文脈を主として形づくるのは,人間の尊厳や生命の尊重を蔑ろにして生産力向上と高度経済成長をひたすら押し進めた産・官・学一体の権力政治である。この倒錯した現代日本の政治システムが,水俣病に象徴される人間の大量破壊,環境破壊,そして社会全体の破壊を生み出した。すなわち水俣病の問題というのは,ナチスによるユダヤ人大虐殺や広島・長崎への原爆投下に匹敵する,ジェノサイド(大虐殺,皆殺し)の政治として位置づけられるわけである。だが,そのことを隠蔽するために,今もって権力側から水俣病を全否定もしくは矮小化し,幕引きしようという政治的企てがなされる。そのような欺瞞的な政治に対して,水俣の人々の破壊し得ない存在と尊厳の政治が対峙する。水俣病を描く場合,そういう政治の文脈を見失ってはならないだろう。

 

アウシュビッツが陸の上のジェノサイド,

ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,

水俣病は海からのジェノサイドである 

(同書p.16~p.17)

 

 私たちはジェノサイドの政治から決別できているか――水俣の受難者たちは問うているように思える…