デンジャーネット | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


ゴーン流からの決別を
 前回記事で,今も日本企業の体質は,水俣病という取り返しのつかない公害を生んだ日本窒素と同じだという趣旨のことを書いた。その点に関連して,先週中日新聞に載った上の記事が目に留まった。「ゴーン流の修正」などではなく,思い切った転換というか,もっと強く,ゴーン的なものとは決別する勇気が,今の日本の企業社会では必要だと思ったのである。

ゴーンが何をやったか
 90年代後半に経営に行き詰った日産は,ゴーンの下で再建を果たしたと言われる。だがゴーンが何をやったか。ひと言で言えば,大量の首切りである。それまで日本の経営者にとって社員の首切りは,そう簡単にできることではなかった。それはあくまで最後の手段であり,いざというときは社員よりもまずは自らの首を切るという姿勢を示すのが最低限のモラルとしてあったような気がする。それが,ゴーンの登場で大きく変わった。首切りがリストラと言い換えられ,企業経営には必要不可欠な合理化として評価されるようになった。このようなゴーン礼賛は,企業再建をするためなら人権侵害をしても構わないという歪んだ価値観を,日本社会に植え付けてしまったように思う。

ゴーン改革の内実
 今回発覚した新車無資格検査の問題も,品質管理や消費者の安全よりも何よりも,人員・コスト削減を優先した結果であろう。新聞記事によれば,現場は人不足で相当な無理が生じていたとある。ああいった無資格検査がいつから行われていたのか定かではない。おそらくゴーンが招聘(しょうへい)されるより,ずっと前から行われていたのだろうが,「ゴーン改革」と呼ばれ称賛されたものは,そういう不正や違法性,ずさんな管理などを是正してガバナンス(企業統治)を向上させるような性質のものではなかったということである。いかに作業効率を上げてコミットメント(目標)を達成し,利益を拡大するか。ゴーン改革とはその一点に絞った改革だったのである。

ガバナンスとは何か
 今「ガバナンス(企業統治)」と書いたけれども,もともとガバナンスという考えは,「企業は儲(もう)けだけを追求するのではなく,社会的責任を果たす主体であるべきだ」という文脈から出てきたはずである。ところが,日本では「企業の社会的責任」という契機は消えて,「効率的に儲けられる体制づくり」といった意味で,ガバナンスは受容されてしまったのである。そういう一面的なガバナンスを最も先鋭的に追求したのがゴーン流だったと言える。だから,そういうゴーン流を断ち切り,本来のガバナンスや企業の社会的責任を追求していかなければ,日本の企業に未来はないのではないか。そうしなければ,これからもさまざまな公害や事故,不正,隠蔽などを繰り返していくのではないか。そう思わざるを得ないのである。だが今,安倍政権がやろうとしている「働き方改革」の実体というのは,企業が労働者をいかに安上がりに働かせて,不用になれば使い捨てることのできる,そういう体制を追求するものだ。ゴーン流は日本の権力側にも染み付いているのである。

経済合理性とは何か
 そもそも経済合理性というのは,ゴーンが追求したものとは全くの別物である。経済合理性の本来の意味は,人々のモラルや人権を侵さないということだ。なぜなら経済とは人々の営みにほかならず,人間のためにあるものだからだ。経済は,ただ単にお金を儲けるために営まれるのではない。つまり経済合理性とは,人間の本源的な権利,生存権の上に立って初めて成り立つものなのである。人間の生存を蔑(ないがし)ろにして金儲けや株高をやみくもに追求することは,もはや経済合理的な営みでも何でもない。

原発擁護は人間不在の論理
 そういう意味では,例えば原発推進派が「経済合理性」を発電コストとはき違えて,それが一番安いという根拠でもって再稼働を正当化する論理は,人命や人権を侵害しないという根本を見失っており,誤謬も甚だしいのである。平和的生存権を脅(おびや)かし,実際に人間の命や健康や遺伝子を傷つけてきた核・原発に,経済合理性があるなどという議論は初めから成り立たない。原発というものは,経済合理性とはまさに対極にある経済的不合理の極みだ。そういう原発を擁護する議論は,そもそも経済というものが全く理解できていないことから来るものである。経済とは,人間のあり方,人権意識と深く関連し,その上に立っている。だから,経済を再びそうした人間本位のあり方に変えていくことが今,求められていると思うのである。

セーフティーネットの崩壊
 さて,ゴーン流の合理化や新自由主義的な規制緩和・自由化が進められていくのに伴い,社会のセーフティーネットもズタズタに切り裂かれていった。その一つの事例が下の記事「障害者の大量解雇」に示されている。



障害者の大量解雇
 障害や病気のために働く場所を得られない人たち,あるいは解雇や過労・パワハラなどが原因で心を病み働けなくなった人たちの「受け皿」としてあったはずの就労施設(A型事業所)でさえも,今や民間企業の参入により「儲け主義」がはびこっている。上の記事は,その実態を伝えている。記事によれば,国から支払われる補助金(「給付金」と「特開金」)を目当てに参入してくる事業者が多いのだという。障害者を雇って行う事業自体から利益を出すことは難しいため,国からの補助金で「利益」を出していたようだが,そのうちに賃金が支払えなくなり運営に行き詰まって,障害者の大量解雇につながったらしい。こういう障害者の自立支援を謳う制度でも,セーフティーネットとしての機能は完全に失われている。ここでは障害者などの弱者も企業に利潤をもたらすための「労働力」としてしか見なされていない。だから,その能力がなくなり役に立たなくなれば当然,首を切られる。

弱者が弱者を叩く自助の社会
 今では福祉や医療などの分野でも市場原理が原動力として働いているわけである。もはや公助・共助の精神は日本社会の中では潰(つい)えてしまったかのようだ。助け合い抜きの自助・自己責任論だけで社会が成り立っていくのだろうか。公助・共助への嫌悪が格差社会を容認し,弱者を追いつめ,弱者が弱者を叩(たた)く構図ができあがっている。ネトウヨや在特会などの社会的弱者が生活保護受給者や在日の人たちを攻撃するのは,その典型的なケースだろう。

あらゆる弱者の根源的な生存権の確立を
 そういう市場原理や自助だけで社会を作り変えていこうという動きに対して私は,労働者になり得ない存在も含めて,あらゆる弱者を救済し,その根源的な生存・人権を確立することを断固主張する。したがってセーフティーネットを早急に整備しなければならないと考える。こういうことを言うと,共産主義とか革マルであるとかのレッテルを貼られるが,そういうレッテル貼りがネットの世界ではまかり通っているのを見ると,知性の貧困も行き着くところまで行ってしまった感を強くし,空しさを覚える。「世も末」と思わざるを得ない。

日産座間工場
 ところで,私が数年前まで住んでいた神奈川の家の近くには,閉鎖された日産座間工場の跡地があった。そこは「カレスト座間」(新車・中古車販売)が入っていて,それなりに賑わっていたようだが,その広い敷地を持て余している感じがした。あの広大な土地に建っていた工場とともに無くなった数知れないさまざまものを,私は想像せずにはいられなかった。ゴーンもその流れの中で登場した。

座間の大量殺人事件
 話が飛ぶようだが,同じ座間で起こった大量殺人事件。私には,あの事件がゴーン的なものとどこかでつながっているように思えてならないのである。あの加害者にはまだ理解できないところが多いが,若い被害者9名の情報を知ると,貧困や孤独,引きこもりといった背景が透けて見えてくる。表の社会に居場所をなくし,将来に不安や絶望を抱えた若者が唯一安心して話せる私的空間がSNSだったのかもしれない。だがその私的なSNSでさえも安心できる場所ではなかったということがはっきりしたのではないか。社会の表も裏も,あらゆる領域が危険水域に入っている。昨年相模原で起こった障害者大量殺傷事件が,新自由主義的な流れと軌を一にしていることは,ここでも何度か指摘した通りである。北朝鮮を必要以上に警戒して余計な圧力をかけることよりも,足元に幾重にも張りめぐらされた危険網(デンジャーネット)を取り除くことの方が先決だろうと思う。そのためにもゴーン的なものや竹中平蔵的な自由化とは縁を切る必要があると思うわけである...。