映画「残像」(@名演小劇場) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

人はそれでもなお信念を貫けるのか――
全体主義権力に抵抗し続けた芸術家の実像




 観おわった後,まさに「残像」のように映画のいくつものシーンが瞳の奥に残る。そして,その「残像」は確実に「今」につながっている。凄い作品。昨年亡くなったポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダの遺作ともなった。

 特に冒頭の二つのシーンは今も目に焼きついている。すなわち最初は,草原の広がる牧歌的な風景をバックに,片脚のない美大の教授が学生たちに囲まれて和気藹々と野外講義を行っているシーン。続いて,スターリンの肖像が描かれた真っ赤な巨大な垂れ幕が教授の自宅アトリエを覆い尽くし,これを教授が松葉杖で切り裂くシーン。この「自由」と「抑圧」のコントラスト。この冒頭シーンだけでも観る価値があるのではないかと思ってしまうほど,私には強烈な印象が残った。この2シーンに象徴されるように,「自由」を弾圧する権力と,「自由」を求める芸術家の対決こそ,この映画の最大のテーマである。

 舞台は第二次大戦後,ソ連の影響下にあったポーランド。その社会主義圧政下で一人,国家に抗い,表現の自由を守ろうとした実在の画家ストゥシェミンスキの晩年(1948~52年)を描いている。芸術を政治に利用するために社会主義リアリズムを要求するポーランド政府に対して,ストゥシェミンスキは真っ向から反発した。そのため,美術館から彼の作品は撤去され,大学の職を追われ,芸術家協会の会員資格まで剥奪されて絵の具さえも買えなくなってしまう。だが,いかなる苦境に追い込まれても,ストゥシェミンスキは信念を曲げず,芸術に希望を失うことはなかった。「芸術と恋愛は,自分の力で勝負しなければならないのだ」と

 近代美術の発展とスターリニズムの交差点で何が起こったのか。何が生まれ,何が失われたのか。よく目を凝らして見つめる必要がある。芸術とは何か,人間の尊厳とは,人間らしさとは・・・これまで何度も繰り返し問われてきたテーマだが,この作品ほど強烈に迫ってくるものはなかった。

 ストゥシェミンスキの不屈ともいえる抵抗精神には敬意を払うよりほかない。思想を押しつける全体主義への抵抗は,人間の尊厳を守る闘いでもあるのだ。表向きは悲惨な末路を辿ったように見えるかもしれないが,死を前にしても権力に屈しなかったストゥシェミンスキの凄まじい生き方は,最大の賞賛に値するであろう。人間が人間らしくあるために闘い,「祖国への報われぬ愛」に殉じた姿は,彼の絵画作品と同じくらい美しい。

 だが,と同時に思う。もし自分がこのような圧政の中に放り込まれたら,本当に信念を曲げずに闘えるのかと。仕事も家も家族も仲間も奪われ,食事の配給も受けられず,子どもには靴も買ってあげられない。それでもなお信念を貫けるのか。国の方針に従うなら安定した職と身分を保証されると知っていても,それを拒否し,芸術の本来のあり方や理想を追求し続けることができるのか。その代償はあまりにも大きい・・・

 その点に関して,ワイダ監督の,遺言とも読めるようなメッセージが映画パンフに載っていたので,下に引用しておきたい。

 私は,人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と,一人の威厳ある人間との闘いを描きたかったのです。
 一人の人間がどのように国家権力に抵抗するのか。
 表現の自由を得るために,どれだけの代償を払わなければならないのか。
 全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。
 ――これらは過去の問題と思われていましたが,今もゆっくりと私たちを苦しめ始めています。


 このメッセージをしっかり胸に刻んでおきたいと思う。それは,今の日本への警鐘にも聞こえるからだ。個人の内心の自由を奪う共謀罪や,国家と資本の結託した国家戦略特区が日本を覆うとき,一体何が起きるのか。国家が一人一人の人間の内面を支配するとき,何が起きるか。私たちは歴史から学んで,すでに知っているはずではないか。そのことをワイダは最後の映画で問うている。表現の自由,人間の尊厳を守るため,全体主義への今の流れは絶対に止めなくてはいけないと強く思う...

 どのような答えを出すべきか,私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです。
    アンジェイ・ワイダ 2016年,初夏