NHKスペシャル ミラクルボディー第3回
マラソン最強軍団
持久力の限界に挑む
力強く拍動する心臓、マラソンの世界記録を持つ男の心臓だ。男の名はパトリック・マカウ…42.195キロを2時間3分台で走る驚異の肉体を持っている。
肉体を過酷なまで追い込む競技、マラソン…ランナーたちは持久力の限界に挑み続けてきた。100年前、2時間55分18秒だった世界記録は、今や1時間近くも短縮、早ければ10年余りで2時間を切る可能性があるという。
その原動力となっているのが東アフリカ、マラソン最強軍団だ…ケニアとエチオピア、今、歴代公認記録の上位100位はこの2つの国によってほぼ独占されている。…その頂点に立つのが人類史上3人しかいない2時間3分台の男たちだ。
4年前、世界を驚かせたのがエチオピアのハイレ・ゲブレシラシエ、2時間4分の壁を破り人類で初めて3分台に足を踏み入れた。（2時間3分59秒）
去年その記録を打ち破ったのがケニアのパトリック・マカウ、世界記録を一気に21秒縮めた（2時間3分38秒）…その僅か1ヶ月後、マカウの記録に4秒差に迫ったのがケニアのウィルソン・キプサング（2時間3分42秒）。
3人はなぜ2時間3分台で走れるのかその秘密にハイスピードカメラが迫った。…常識を覆すつま先からの着地、この着地によって地面からの衝撃を抑え、まるで水面を飛ぶかのように走っていた。…それは究極の省エネルギー走法、筋肉の負担を最小限に抑えた疲れ知らずの走りだ。
科学の目は肉体の内部にも迫った…42キロを走る為に彼らの血液は驚くべき能力を獲得していた。
この1年、私たちは3人の順位が入れ替わる激しい争いを目撃した…トップを狙う競争こそが世界記録を生み出す原動力となっていた。
人間の持久力の限界に挑み続ける東アフリカ、マラソン最強軍団…その強さの秘密に迫る。
パトリック・マカウの強さ
東アフリカを南北に貫くグレート・リフト・バレー大地溝帯…人類発祥の地とも言われている…ここに世界のマラソン界を席巻する最強ランナーたちがいる。
ケニアのトップランナーを数多く輩出しているランニンググループ…先頭を走っているのがパトリック・マカウ27歳、世界で最も速くマラソンを走る男だ。…マラソン初挑戦から僅か2年で2時間3分38秒という世界記録を打ち立てた。
起伏の激しい道を競いながら走る過酷なトレーニング、足元は一歩間違えば転倒しかねない悪路だ。こうした厳しい練習によってマカウは世界の頂点に立った。
疲れ知らずの秘密
マカウを日本の研究機関に招きその持久力を化学的に測定した。
ランナーは一定のスピード以上で走ると筋肉に負担がかかり乳酸が体にたまり始める…乳酸濃度が4ミリモルを超えるペースで走り続けると乳酸が急速にたまり始める。やがて筋肉が収縮しづらくなり、これまでのペースを維持できなくなるのだ。
世界記録ペース
マカウ：3.2ミリモル
日本選手：4.8ミリモル
マカウは2分56秒という世界記録ペースで走っても乳酸が3.2ミリモルしか上がらなかった。
更に驚く事があった。ベルリンのレースで見せた1キロ＝2分52秒ペースで走っても3.6ミリモルまでしか上がらなかったのだ。
マカウと日本選手の違い
今回比較の為にロンドン・オリンピック日本代表の山本亮選手に協力してもらった…自己ベストは2時間8分44秒。
マカウ：着地をつま先で行っている
山本：着地を踵で行っている
実は、世界の多くのランナーは、踵からの着地だ…これまでつま先で走るのは足への負担が大きいと考えられてきた。…しかし実際には全く逆だったのだ。
測定の結果は…
マカウ：体重の1.6倍、93キロ
山本：体重の2.2倍、132キロ
衝撃はマカウの方が遥かに少なかった…次に足の筋肉の使い方を測定した。
測定結果は…最も体重が乗った時
マカウ：48％
山本：81％
マカウは30パーセントも少ない筋力で走っていた…足の筋肉に力を入れないマカウの走り…これが42キロ、2万歩以上積み重なると筋肉の疲労は圧倒的に少なくなり、乳酸が溜まりずらい秘密の一端がここにあった。…まさに、つま先着地は究極の省エネ走法だったのだ。
子どもの頃からの生活環境が
つま先着地を身に付けた
イギリス・グラスゴー大学のヤニス・ピツラディス博士、10年以上に渡って東アフリカのランナーを研究してきた。
イギリス・グラスゴー大学 ヤニス・ピツラディス博士
「子どもたちはみな貧しく、靴を履けません…裸足です。裸足で走る時は本能的により衝撃の少ないつま先での着地になるのです。つま先で着地する方が痛みが少ないのです。…森の中や岩だらけの道を走る事で筋肉や腱が自然に強化されて行く…その結果、子どもたちは足の指を曲げる筋肉や土踏まずを支える筋肉が鍛えられてゆくのです」
実際マカウも子供の頃は裸足で生活していたのです。
…MRIで足の筋肉を調べてみた…その結果マカウは足の指を曲げたり、土踏まずを支えたりする深部底屈筋群が非常に発達していた。
ふくらはぎの最も太い部分の断面で比べて見ると山本より37パーセントも大きい事がわかった。
大阪体育大学 大学院スポーツ化学研究家 石川昌紀 准教授
「つま先から接地するマカウ選手は、足がついた後、足の指から土踏まずにかけて大きな力がかかりますのでそれに耐える為に関係した筋肉が発達していると考えられます」
アフリカの大地を裸足で走る事で鍛えられた筋肉、これが世界記録の走りを支えていたのだ。
東アフリカ勢の登場
驚異の心肺機能
1960年、ローマ五輪に出場したエチオピアのアベベ・ビキラ…裸足で走り、世界に衝撃を与えた。アベベを始めとした東アフリカ勢の強みは、高地トレーニングで鍛えた強靭な心肺機能だった。
それから半世紀、マラソンの高速化を一気に推し進めた男がいる…2008年ベルリンマラソン、同じエチオピアのハイレ・ゲブレシラシエ…強靭な心肺機能に支えられた圧倒的なスピードで世界記録を2度更新、…2時間3分59秒、人類で初めて2時間3分台に到達した。
ゲブラシラシエは歴代記録上位100の中で最も多い8回の記録を残している…マラソン最強軍団の中で伝説的な存在となっている。…そして彼は ”皇帝” と呼ばれるようになった。
世界初の解析 ”皇帝” の心臓
マラソンは心臓で走ると言われるほどランナーの持久力を左右する…テキサス大学のベンジャミン・D・レビン教授は高地トレーニングが心肺機能に与える影響を調べてきた世界的権威だ。
全身に血液を送る左心室
ゲブラシラシエ 183ml
39歳一般男性 118ml
同年代の男性と比べると1.6倍も大きい。
筋肉の重量は1.3倍
ゲブラシラシエ 153g
39歳一般男性 116g
これだけ血液を押し出す力が大きいのだ。
テキサス大学 ベンジャミン・D・レビン教授
「マラソンのトップランナーは多くのエネルギーを使うため多量の血液が必要です。彼は全身に血液を送る強力なポンプを持っているということです」
教授はゲブラシラシエの凄いのは特に走っている時の心臓だという…酸素の摂取量から推定すると心臓は最大で1.6倍まで大きくなるという。…通常は大きくなっても1.2倍程度だ。
その結果、1分間に全身に送れる血液の量は、安静時の7倍、30l/minまで増える計算になる。…ゲブレシラシエの心臓は多量の血液を送り続ける事で全身の筋肉に十分な酸素を送り続ける事が出来るのだ。
ゲブラシラシエが心肺機能を鍛えてきたのは標高3000mの山の頂、富士山でいえば8合目の高さ。平地より空気が30％も薄い、この場所で毎朝20キロ以上を走っている。…夕方ジムでも走る。この場所も標高は2400m…朝夕合わせて42キロを走る計算だ。
ゲブラシラシエはこうした高地での訓練を20年以上続けている。
血液の秘密
空気が薄い高地でのトレーニング、鍛えられるのは心肺機能だけではない…血液そのものも大きく変化する事がわかってきた。
ゲブラシラシエの血液を採取させてもらった…研究者が注目したのは血液の流れやすさ、酸素を運ぶ能力の指標の一つだ。
毛細血管に見立てた隙間を流れるゲブラシラシエの血液、一定量が流れ切る時間は…
ゲブラシラシエ 44.9秒
マカウ 40.9秒
日本代表 山本 49.1秒
アフリカ勢の2人の血液は、サラサラで流れやすい事がわかった。
研究者はその理由が赤血球の大きさにあると見ている…
赤血球の容積
ゲブラシラシエ 83fl
マカウ 82fl
日本人選手（16人平均） 93fl
アフリカ勢2人の赤血球は、日本人選手と比べると1割以上小さかったのだ。
研究者は、彼らの赤血球は高地の環境に合わせて小型化し、毛細血管を流れやすくなっていると推測、しかも赤血球の数が多く、酸素を運ぶヘモグロビンの濃度も高かった。
大阪市立大学 都市健康・スポーツ研究センター 岡崎和伸 准教授
「赤血球が小型化しているために血液の流れが良い…ヘモグロビン濃度は高く、血液の流動性も高く、二面性を持ち合わせています。マラソンランナーにとっては理想的な血液だと思います」
高地で鍛えられた心肺機能と血液、そしてつま先からの着地が支える省エネルギー走法、こうした特徴を武器にマラソン最強軍団は、歴代記録上位100位をほぼ独占する事になったのだ。
トップを目指す激しい競争
ケニアには、プロのマラソンランナーを目指す若者が5000人以上います。その多くは収入がなくキャンプと呼ばれる集団生活を送りながらトレーニングに打ち込む日々を送っている。…彼らにとって貧しい境遇から這い上がる最大の手段がマラソンだ。
競争を勝ち抜きトップになりたい。…部屋は、ゲブレシラシエを始め成功を収めたランナーの写真で埋め尽くされていた。
ゲブレシラシエから世界記録を奪ったマカウも貧しい境遇から這い上がった一人だ…そのマカウの記録に4秒差に迫ったキプサングも同様だ。
過酷な環境から這い上がろうとする東アフリカのランナーたち…競争心こそが記録更新のカギだと研究者は指摘する。
メイヨークリニック マイケル・ジョイナー博士
「彼らにとってマラソンで成功する事は、ロック・スターになるようなものだ。10万ドルを稼げれば永遠に家族を養っていけます。そのためトップランナーが脱落してもすぐに別のランナーが台頭してきます…誰もが№1を目指し、過酷な練習に挑み、それが記録を塗り替えているのです」
実際にオリンピック選考会でキプサングに敗れた（足の故障で棄権）、世界記録保持者のマカウは、ケニア代表から外れているのです。
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