「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

個人投資家向け収益不動産検索サイト e-不動産販売公式アカウントです。
マンション経営、アパート経営でお困りの大家さん、収益不動産購入に伴う銀行融資などの不動産投資相談をお受けします。最新の賃貸経営は日々進化しています。一緒に勉強しましょう。

「不動産投資と旅」    現役大家さん、不動産投資を目指す方の為のコミュニティー広場です。・・・気軽にご意見など書き込んで下さい。

個人投資家向け収益不動産検索サイト e-不動産販売公式アカウント-facebook1.5


テーマ:

平成23(2011)年6月、平泉が世界遺産に登録、…この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが藤原清衡に始まる奥州藤原氏です。

 

平安時代も終わりに近づいた12世紀後半、平泉では清衡の孫・秀衡が当主を務めていました…この頃、都では平清盛ひき入る平家が栄華を誇っていました。しかし大きな時代の変化が訪れます…治承4(1180)年、源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵したのです。…頼朝は、鎌倉を拠点に関東の武士たちを束ねます…源氏の勢力は、一気に拡大しました。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-勢力図
東北は、これまで中央での争いに距離をおく事で平和を保ってきました…秀衡はその方針を貫きます。
しかし情勢は、秀衡の思惑を超える速さで変わって行きます…源氏の軍勢は、頼朝の弟・義経の大活躍もあり平家を圧倒、頼朝の挙兵から僅か5年で栄華を誇った平家を滅亡へ追い込みました。
平家を滅びした頼朝は、関東から西日本にいたる武士たちを束ねる総大将となります…圧倒的な武力によって権力を握る新しい時代のリーダーが誕生しました。

そして頼朝は、最後に残った東北に狙いを定めました…間もなく秀衡の元に頼朝からの手紙が届きます…頼朝は、藤原氏が京都に送る黄金や馬を今後は、鎌倉を通して送るよう要求してきました。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-金の流れ
これは、奥州藤原氏が東北の自立の為に築いてきた都とのパイプが断ち切られる事を意味します。
東北の平和と自立を守るためにどんな道をたどるべきか秀衡は思い悩みます…まさにその頃、思わぬ人物が平泉を訪れました。…頼朝の弟・源義経です。

義経は平家との戦いで大活躍しましたがその後、頼朝と対立、追手をかけられ平泉に逃れてきました。…義経を受け入れれば頼朝との対決は避けられません。秀衡の決断は、義経の受入れでした。…頼朝に服従するのではなく、義経とともに頼朝と対決する道を選んだのです。

義経も頼朝と同じ、武家の名門である源氏の御曹司…義経を立てて金看板にすれば十分、頼朝と対抗できる。
秀衡には、17万ともいわれる軍勢があります。…源氏の名高い武将・義経を立てて頼朝と戦い東北の自立を守り抜こうとしたのです。

しかし、文治3(1187)年、ところが奥州藤原氏の当主・秀衡は、病に倒れ帰らぬ人となります。藤原秀衡 死去…。

東北は、頼朝との戦いを前に絶対的な指導者を失ってしまったのです。…秀衡を失った東北に頼朝の脅威を跳ね返す力は、もはや残っていませんでした。
秀衡の死から2年後、頼朝の率いる大軍勢の襲撃を受け、平泉は1月たらずで陥落します。…平和で自立した東北を目指した奥州藤原氏、その100年に渡る夢は、武力が支配する時代の訪れによって幕を閉じたのです。

しかし平泉に入った源頼朝は、中尊寺をはじめとする寺院の壮麗さに目を奪われます…頼朝は、勝利に勇み立つ武士たちに平泉のお寺には決して手を出すなと厳しく命じました…更には家臣に命じ、お寺の修理までさせています。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-金色堂
やがて江戸時代には、平泉は伊達家の領地となりますが伊達正宗以下、代々の仙台藩主も平泉の寺院を手厚く保護しました。奥州藤原氏は滅亡しましたが、彼らが築いた平泉の文化は、いつの時代も東北の精神的な柱として大切にされ続けました。

そして奥州藤原氏の滅亡からおよそ800年、平成23(2011)年6月、平泉が世界遺産に登録、それは大震災で傷ついた東北を励ます出来事です。…2011年7月、世界遺産登録を記念し、東日本大震災の犠牲者を悼む法要が催されました。

 

 

 

 


テーマ:

実は日光から60キロ離れた群馬県太田市にもう一つの東照宮があります。…この東照宮こそ元祖日光東照宮、家康が死んだ直後に造られたものです。
全体が朱色に塗られた小ぶりな建物です…作ったのは家康の息子で二代将軍の秀忠、家康の死後、遺言通りにしたものですが全体的に簡素な印象です。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-旧
それを20年後、突如、絢爛豪華に作り変えてしまったのが三代将軍・徳川家光…現在の金額で2000億円もの巨費を投じました。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-新
集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・狩野探幽、江戸城本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。どうして家光は、これほど豪華なものを作ったのでしょうか。

慶長9(1604)年、家光は江戸城に生まれました…祖父は家康、父は秀忠、母は江です。…幼名を竹千代…これ以上望めないほどの良い生まれでした。
しかし家光の乳母・春日局が書いたといわれる文書に衝撃的な事が記されています…「竹千代を二親ともに憎ませられ」…なんと江、秀忠ともに家光を憎んでいたといいます。
生まれてすぐ乳母に預けられた家光は大変身体の弱い少年でした。…一方、家光より、2年後に生まれた国松は、母・江の手によって育てられて健康で武術にも優れた活発な少年でした。
周囲でも次期将軍は兄ではなく、弟がふさわしいとの評判が高まります。

そんな家光に目をかけたのが祖父の家康でした…ある時、家康は二人の孫に会いに来ました…事実上、どちらが跡継ぎにふさわしいと考えているかを示す場でもありました。
人々が見守る中、家康が発した言葉は、「竹千代殿、これへ、けれへ…」(『徳川実記』より)…家光をまず近くに呼び寄せました。
つられて前に出ようとした国松に対しては、「国松はそこにいろ!」(『徳川実記』より)…と呼び捨て、家康は優秀と評判の国松よりも、あくまで年長の家光を時期後継者と考え、それを示しました。
家康の考えは、将軍を才能や優劣で決めてしまえば、必ず争いが起こる…それを防ぐには長子相続、つまり年長順に将軍を決めるという方針を明確に打ち出しました。

家光は、家康の死から7年後、20歳で3代将軍となり、9年後には父・秀忠も亡くなって名実ともに将軍となります。…この時、家光29歳…しかし、その前途は多難なものです。
居並ぶのは、伊達正宗ら歴戦のつわものたちばかり、一方、自分は戦場に立った事も無く、才能が認められた訳でもなく、将軍の子というだけで上に立っている三代目、家光は、家康の孫であるという血筋を前面に出して強がってみせるしかない状態です…その家光が急ぐように始めたのが日光東照宮の造り替えでした。
当時、日光には父・秀忠が造った社殿がありましたが…それを家光は家康の21回忌竣工を目指し、1年5ヶ月で造り替えてしまいました。
家光は、東照宮を膨大な数の彫刻で飾り立てました。…家康の御神体を祀る本社に近づくほどその数は増していきます。
表玄関・陽明門には、龍や唐獅子などなんと500を超える彫刻…陽明門をくぐったところ本社の入口に当たる唐門には、従来の日本建築に殆んど見られなかった装飾を施しました。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-彫刻
一本のケヤキから掘り出された群像彫刻です…そこには、家光の三代目ならではの思いが垣間見えます。…表わされているのは、中国古来の伝説の帝王が臣下に謁見する場面です。(舜帝朝見の儀)
中央にいるのがその人、舜帝…良く見るとその顔は家康に似ています…舜帝は堯から帝位を受け継ぎ禹に渡しました。それは徳のある者へ正しく政権が移った理想の政治とされています。
家康を立てながら実は、密かに自分に政権が渡った事は正しいと主張している彫刻なんです。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-麒麟
更に本社の拝殿内部に狩野探幽に命じてユニークな絵を描かせました…想像上の動物麒麟です。…これにも意味があります。麒麟は優しい動物で徳のある王の世に姿を現し、殺生の多い王の世には姿を隠すと言われています。
麒麟がここにあるということで自分は徳のある君主だと言わんとしたのです。他にも有名な眠り猫や見ざる・言わざる・聞かざるなどにも平安の世を意味する彫刻だったのです。

つまり、家光は日光東照宮を豪華に造り変える事により、家康の威光を最大限に活用し、自らのカリスマ性の無さを補ったというわけです。

 


テーマ:

世界文化遺産・日光東照宮…日光といえば紅葉の一大名所、いろは坂や中禅寺湖、更に日本三名爆の一つ華厳の滝もありますが…なんといっても日光東照宮です…年間200万人もの人々が訪れる日本を代表する観光名所です。

この日本一豪華な建物を作ったのが徳川幕府・3代将軍・徳川家光です。
慶長5(1600)年、天下分け目の合戦・関ヶ原の戦い…大勝利を収めた徳川家康は、天下の実権を握り3年後に江戸幕府を開きます。

慶長20(1615)年には、大阪夏の陣で豊臣一族を滅ぼし、天下人の地位は安泰かと思われました。…しかし、この時、家康すでに74歳、体調を崩し駿府城にこもりがちになります。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-地図
家康は不安を感じます。…「自分が死んだら幕府はどうなってしまうのか」…全国には、伊達に上杉・福島などつい最近まで覇権を争った武将がまだ健在でした。
息子・秀忠を二代将軍にしていたものの、まだ30代、自分・家康のカリスマ性によってかろうじて納まっている幕府、死後もその権威を保つ方法はないのかと家康は思案します。

元和(げんな)2(1616)年4月4日、死の2週間前、家康はある奇妙な考えを側近に告げます…「死後、関八州の鎮守とならん」(『本光国師日記』より)鎮守とは守り神の事、死んだ後なんと神となって関東と幕府を守ろうというのです。

どういうことかといいますと…京都の豊国神社の祭神は豊臣秀吉…遺言によって神として祀られました。死後もこの世に魂を残し、カリスマ性を維持する事で支配に役立てようとしました。…家康も秀吉のやり方を踏襲したと考えられます。
家康は、そのやり方についても詳細な計画を伝えていました。家康の言葉が残っています…「自分が死んだら遺骸は久能山に納め一周忌の後、日光山へ魂を移せ」(『本光国師日記』より)。

元和2(1616)年4月17日、家康は駿府城で息をひきとります…すぐさま計画が側近によって実行に移されました。
遺骸が運ばれた久能山、駿府城から8キロほどのところにあります。
そして一年後、また遺言に従って日光に移されました。

どうしてこんな回りくどい事をしたかといいますと…久能山と日光の二つの地点の位置に関係があります。…なんと2点を地図で結ぶと丁度、富士山が線上に位置します。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-富士山
実は富士山は古くから、日本最高峰の霊山とされる特別な山でした。…中でも人々が期待したのが「不死」としての「富士」…不死の山を越える事によって家康は不死身の永遠の存在になろうとしたと研究者の間で考えられています。

日光には、もう一つ不思議な事があります…幕府の本拠地・江戸の丁度、真北に位置しています…北の空には不動の星・北極星、…つまり江戸から見て北極星を背負うように主要な社殿は建っています…家康が北極星を極めて重要視していた事がわかります。


日光東照宮 禰宜(ねぎ)の高藤晴俊さんは…
「天帝に選ばれた家康、その意を受け継ぐ徳川将軍…だから家康公が祀られるのは江戸の北、北極星の方角の日光が一番ふさわしかったのです」…こうおっしゃっています。

日光という場所には、こんなミステリアスな理由が秘められています。

 


テーマ:

群雄割拠の戦国乱世…織田信長は尾張という小国から天下を目指したというイメージがありますけど本当にそうなんでしょうか???

慶長3(1598)年の検地高をもとに石高のベスト10を出してみました…これでわかることは、近江、尾張、美濃の経済大国ぶりです。

戦国石高ランキング ベストテン
1位 近江 77万5000石
2位 武蔵 66万7000石
3位 尾張 57万1000石
4位 伊勢 56万7000石
5位 美濃 54万石
6位 常陸 53万石
7位 越前 49万9000石
8位 上野 49万6000石
9位 大和 44万8000石
10位 豊後(ぶんご) 41万8000石

…尾張は、大国だったんです。

信長の父、信秀は、朝廷にも献金、将軍足利義輝にも拝謁し、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上したりもしています。

こんな事が出来たのは、尾張の豊かな石高もありましたが伊勢湾の商業港”津島”と商業都市”熱田”を支配していたためです。

つまり、信長は、57万石という全国有数の豊かな領地、プラス商業港島津、商業都市熱田を抱えた経済力をバックに天下を目指したんです。

 

隣国の美濃を手中にした時点で100万石を軽く超えています…石高1万石当たり250人という計算になりますから、美濃を攻略した時点での信長の動員力は27000人となります。

プラス豊富な資金力で鉄砲隊を組織…強いわけですよ。


テーマ:

次はマルマン水晶でお買い物をお楽しみいただきます。

山梨は水晶の産地として、国内シェアの3分の1を占めていて、宝飾製品の出荷額が日本一!!だそうです。

チョット意外ですよね…私も先日、調べてみて初めて知りました。

 

ここからはマルマン水晶のホームページに書かれていることをそのまま読み上げます。

「水晶は、設置した場所を浄化する能力がきわめて高く、その場の気や空気などが清められ「陰の気」を「吉の気」に転換させてしまいます。その力はまさに神秘的でそれを持つ人の潜在能力を無限に引き出すとされています。

店内には、¥500~というお安い価格帯から、いろいろな商品が並んでいます。
「水晶って高いのかな?」と思っているとおもいますが、意外に低価格の商品も沢山あります。

本物の輝きを見にぜひマルマン水晶へ」

…とマルマン水晶のホームページに書かれています。

それでは、現地に近づきましたら到着後の流れ、注意点など改めてご説明いたします。


テーマ:

 

本日の訪問先、「梨シャインマスカット狩り食べ放題」について少しお話しします。

シャインマスカットは2006年に品種登録された新しいぶどうの品種です…ぶどうは品種改良が盛んな果物です。

その中でもシャインマスカットは安芸津21号(スチューベン×マスカット オブ アレキサンドリア)と白南(カッタクルガン×甲斐路)を掛け合わせてできた品種です。

掛け合わせるもととなった品種もおいしいのに、その全てのいいところを引き継いでいるのがシャインマスカットです。

いわば「ぶどう界のサラブレット的な存在」と勝手に私、思ってます。

 

特徴として香りと高い糖度、そして何よりも種なしで皮ごと食べられます。

シャインマスカット本当に美味しいです…私、大好き…食べておかないと人生チョット損しているぐらいのレベルです。

ちなみ一つアドバイス…ぶどうは「肩が甘い」といわれています。ですから房の先から軸元に向かって甘くなっています。
食べるときは先から食べていくとおいしくいただけます。

 

楽しみですね…現地に近づきましたら改めて到着後の流れ、注意点などの具体的なご案内をいたします。

 

 

 


テーマ:

鳴沢氷穴についてご説明いたします。

鳴沢氷穴は青木ヶ原樹海の東の入口に位置しています。

年間を通して観光客がたえません…富士五湖観光のひとつに数えられています。

今から1000年以上前の貞観(じょうがん)6年(864)に富士山が噴火した際、流れ出た溶岩により出来たのが鳴沢氷穴のトンネル式洞窟です。
昭和4年に文部省の天然記念物の指定を受けてから世界に紹介されて地質学上、貴重な存在となっています。

 

氷の穴、氷穴というようにトンネル内の気温は3度…寒いですよ…ままさに天然の冷蔵庫…氷穴内には氷の貯蔵庫があります。この貯蔵庫の氷は、江戸時代には将軍に献上するため、それ以降は冷蔵庫の氷など様々な用途で使われていたそうです。現在は用途が無いため、毎年冬に四角い氷を作って再現しています。

 

総延長153m、幅1.5m~11m、高さ1m~3.6m…氷穴は竪穴(たてあな)になっていまして…入口から狭くて急な階段です。滑りやすいので必ず手すりにつかまり、足元には十分注意をして見学ください。そして階段、緩い坂、階段を繰り返して21m下ると最下部に到達します。その後、入口に戻ってきます。

氷穴内は、一方通行で戻ることはできません…それと場所によっては、かがまなければ通れないような天井が低い場所もあります。

若い方やお子様は探検感覚を喜ばれています…でも足腰に不安のある方にはチョットしんどいかもしれません。

とはいっても総延長150mほどで幅も狭い場所だけでなく11mあるような広いところもあります…見学の時間は15分程度で回れます。

天井が低いので頭上注意もありますが…とにかく階段では手すりのある所は、必ず手すりにつかまる事、足元滑りやすので注意!…この2点、気をつけてください。

現地に近づきましたら到着後の流れ、入場方法、洞窟内見所など具体的な注意点など改めてご説明いたします。

 

現地到着前案内

まもなく鳴沢氷穴到着です。到着後の流れを説明します。私が皆様を氷穴入口までご案内します…まず私が受付にて入場の手続きをいたします。入場券はツアーバッジです。バッジを係員に見せて入場となりますので今一度、バッジの確認をお願いします。…バッジって大切なんですよ。

入場後、係の方から改めて注意点などの説明があります。そして氷穴入口のヘルメットをかぶって入場です。

先ほども説明した通り、氷穴内は通路が狭いので一方通行となっています。総延長150m、見学の時間は15分程度で回れます。天井が低いので頭上注意もありますが…とにかく手すりのある所は必ず手すりにつかまる事、足元滑りやすので注意!…この2点、気をつけてください。


テーマ:

戦国乱世、後に天下人となる男たちの頂上決戦が一度だけありました…「小牧・長久手の戦い」です。

羽柴秀吉と徳川家康の二大巨頭の戦いです。

有名な戦いですから皆さんご存知だと思いますが…後の歴史に及ぼした意味合い、重要性が現在見直されています。

 

江戸時代聖地のように崇められたのが小牧山城です。

神君家康公、御戦勝、御開運の地として山番をおいてみだりに一般人が入ることを禁じていました。

小牧山城には勝者の歴史が刻み込まれています。

 

江戸時代の歴史書は…「家康の天下を取るは大阪にあらずして関ヶ原にあり、関ヶ原にあらずして小牧にあり」…小牧・長久手の戦いが後の徳川の時代をもたらしたという考え方です。

 

簡単にこの戦いの経緯を説明します。

先に動いたのは秀吉です…家康方の武将、池田恒興、森長可(もりながよし)を調略で寝返らせ犬山城を占拠…対して家康の動きは素早かった…すぐさま小牧山城を押さえました。

ここから本格的な軍事作戦が展開されます。

小牧山城は、元々あの織田信長が築いた城、美濃攻略のために清州から本拠地を移したほどの要衝の地です。

家康はすぐに小牧山城の改修工事を実施し…大土木工事です…3重に堀や土塁をめぐらした鉄壁の要塞が完成…近づくものは瞬時に命を落とすでしょう。

小牧山城は、秀吉が抑えた犬山城から10キロ南の地点にあります…小牧山城から犬山城の動きが手に取るようにわかります。

 

天正12年(1584)3月28日秀吉は大軍を率いて着陣、兵力10万…対して家康方1万7000…両軍のにらみ合いが始まります。

これだけの兵力差です…簡単に秀吉軍が家康方を圧倒できると誰もが思いますが…当の秀吉の言葉が残っています。

「あの山を家康に取られては、味方の勝利は心もとない」…と秀吉は言っています。

 

長期戦に不利は秀吉です…理由は2点

1.数は10万集めたが寄せ集め集団である

2.数か多すぎて兵糧を維持できない、補給が出来ない

そして皆様ご存知の通り、秀吉がじれて先に手を出します。

攻撃目標を難攻不落の小牧山城から、家康の本拠地、三河を直接攻撃する奇襲作戦に出ました。家康を城の外におびき出す陽動作戦です。

天正12年(1584)4月6日、25000の大軍勢にて三河を攻める作戦行動を開始…指揮するは秀吉の甥であり後の関白、三好秀次を大将に池田恒興、森長可というそうそうたる布陣です。

しかしこの奇襲作戦は家康に察知されていました。家康自ら兵を率い長久手の地にて万全の態勢で向かい打ちます。

結果は池田恒興、森長可、両将を打ち取られるという秀吉方の大敗北に終わります。

流石、家康、強い…家康には勝てないと悟った秀吉は、ここから和睦の道を探る方向変換をします。

小牧長久手の戦いは後の体制を決めるための大きな意味を持つ戦いだったという事なんです。

 

 

 


テーマ:

本日は星空を楽しむツアーという事で私も少し調べてきました。

宇宙の大きさ、長さ、距離、広さについてです。
宇宙って 「どれだけ広いんだろう」 って誰でも一度は考えます。
私は、布団に入ると宇宙の大きさを考えながら寝る事がよくあります。

 

宇宙の大きさからすると光の速さで考えるのがわかりやすいです。…光の単位は光年…1光年は1年間かけて光が進む距離です。

光年単位で言えば、私の実感できる限界の距離としては、宇宙戦艦ヤマトが向かったイスカンダルが14万8000光年です。

イスカンダルは大マゼラン星雲に位置しています。

宇宙戦艦ヤマトのおかげで光年単位で言えばイスカンダルまでの14万8000光年までは、なんとかイメージできます。

ですから地球が所属する銀河系の大きさ直径10万光年も感覚的に想像できます。

銀河系のお隣の銀河であるアンドロメダ星雲までは250万光年です…ここまではかろうじて距離感を想像する事が出来ます。

 

チョット規模が大きくなりすぎましたんで一旦、太陽系に戻りましょう。

光の速さ…
現在、世の中で一番早い物質とされているのは光です。その速さは秒速30万km。光は物体の速度の上限とされています。太陽から放出された光が地球に届くまで約8分20秒、月からだったら2秒もかかりません。光の速さは1秒間に地球を7周半回る速度と表現されます。

 

改めて太陽からの距離(光の速さで)

太陽から光を発して…
水星 3分15秒
金星 6分
地球 8分20秒
火星 12分40秒
木星 43分20秒
土星 1時間9分30秒
天王星 2時間39分55秒
海王星 4時間10分50秒
※光の速さでも太陽系の外れまで4時間もかかるんです…ビックリ!!


どれだけ大きいのか、広いのか…イメージしやすい例がありました。…地球の大きさを直径1mm、地球を1ミリとして、色々な天体がどのくらいの距離にあるのかを調べてみました。
まず、地球から一番近い天体、月までの距離は約2.5cmになります。

地球の直径を1ミリと仮定すると月までは2.5センチ…「なるほどな」って皆さんも想像できますね。
そして太陽迄の距離は10mになり、太陽の大きさは直径10cm…ソフトボールぐらいですかね。
さらに太陽系の全体の大きさは直径800mなります。

 

でも光の速さ以外で距離感、大きさを実感できるのはここまでで太陽系を離れて一番近い太陽と同じ光を合する星、恒星までの距離を考えてみると、その広がりの驚かされます。
太陽系に一番近い恒星は、ケンタウルス座のα星です。ここまでの距離は、なんと2700kmにもなるのです。

もう駄目ですね…この時点で既にイメージできる距離の限界を越えました。

因みに同じように地球が1ミリで想定すると銀河系は6000万キロ、銀河系から一番近い銀河のアンドロメダ星雲までの距離は12億kmです。

つまり、宇宙の大きさは、やはり光年、光の速さで考えないとイメージしづらいんです。

今、光の速さでなければ宇宙の大きさを感じる事は出来ないといいましたが…最後にもう一度だけ、無謀にも光の速さ以外での説明にチャレンジします。

はい、では行きます…ここまで説明した通り、太陽系がどれほど大きいか理解できたと思います。また太陽のお隣の星がどれだけ遠いかも説明しました。

この太陽が銀河系にはなんと2000億個あるんです。

銀河系=天の川銀河には太陽のような恒星が2000億個…2000億ってのは凄い数です。

しかし、驚くのは、更にその銀河の数は宇宙全体で2兆個あります。…2兆個…兆の単位事体がイメージしずらい…凄まじい数です。

 

■というように宇宙というのは実感できないほど…恐ろしいほど広いって事なんですね。


テーマ:
 
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-関ヶ原の戦い 布陣図
もうじき関ヶ原ICです…私、実は歴史オタクでして…個人的に関ヶ原に行ったことがあります。
どんな場所かと言いますと…はっきり言いまして歴史に興味のない方には、あちこちに石碑が建っているだけのちっとも面白い場所でないとおもいますが、歴史好きの私としてはたまらない場所です。

関ヶ原の戦いは、慶長5(1600年)年9月15日、関ヶ原にて日本を真二つに分けて日本史上最大の会戦が行われたことは皆さんご存知の通りです…石田三成を実質トップとする西軍85,000と徳川家康率いる東軍88,000の激突です。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-大垣城
(大垣城)
関ヶ原を観光するなら初めに大垣城に行ってもらいたいですね…関ヶ原より岐阜方面に12キロに位置しています。
この大垣城から決戦前夜(午前0時)、石田三成6,000、宇喜多秀家17,000、小西行6,000が隠密裏に関ヶ原に向かいます。

当事の天候は小雨、西暦に直すと10/21日ですから肌寒い中で足元の悪い夜間の行軍は、兵士たちの体力を奪ったんじゃないでしょうか…中山道(国道21号)直線で12.3キロですから伊勢街道を大きく迂回したようですから15キロぐらいの行軍の計算です。

私は三成びいきですから三成の気持ちになって当事を再現してきました…それに関ヶ原の戦いのおさらいをするためにも大垣城で再確認するのをお奨めします。(その場で見れるDVDなども用意されています。入場料100円)
午前5時、西軍が関ヶ原に布陣完了。
遅れる事1時間後…午前6時、東軍が関ヶ原に布陣完了。

ここで両陣営の布陣で注目すべき点ですがご存知の通り、最後まで戦に加わらなかった西軍、毛利勢(毛利秀元15,000、吉川広家3,000、安国寺恵瓊1800)、長宗我部盛親6600、長束正家1500…計27,900が決戦場から遠すぎることです…4キロ近く後方だと思います…これでは、動かない毛利に三成も相当いらだった事でしょう。

この毛利勢を中心とした27,900は、家康本隊30,000(桃配山)の1キロ後方の真後ろに布陣していました。
$「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-関ヶ原 徳川家康陣跡 桃配山
(徳川家康陣跡…桃配山の下の方、高さ30mぐらい)
ここで何か変だと三成も気付かなきゃ駄目ですね…家康が27,900もの大敵を後方に置いて布陣する訳がない。…この時点で毛利は家康と通じていると思わなきゃいけませんよ。
欧米の軍事専門家に、関ヶ原の布陣を見せると10人中10人が石田光成の西軍圧勝というそうです。
午前8時頃、家康の旗本・井伊隊の発砲により両軍の火蓋が切って落とされる。
ここからは攻める東軍、迎え撃つ西軍の一進一退、やや西軍有利で展開されます。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-石田三成陣跡
(石田三成陣跡(6,000))
笹尾山、30mほどの高さの場所に本陣を置いてまさに三成の目の前が決戦場、激戦が繰り広げられていたようです。
島津義弘(1,500)、小西行長(6,000)、宇喜多秀家(17,000)、大谷吉継(600)、平塚為広(1500)大谷吉治、木下頼継(ともに吉継の子3500)
…ここまでの計36,100で西軍は東軍を迎え撃っていたのです…西軍総兵力85,000の半分以下(42%)しか動いていなかったんです。

対して攻撃側の東軍は…福島正則陣跡(6,000)、藤堂高虎・京極高知(5,500)、黒田長政、竹中重門陣跡(5,400)、家康に代わって東軍前線を指揮した軍監・本多忠勝陣跡(500)、田中吉政(3000)、井伊直政(3,600)、松平忠吉(3,000)、細川忠興(5,000)、加藤嘉明(3,000)、筒井定次(2,800)、寺沢広高(2,400)、金森長近(1,200)、生駒一正(1,800)、古田重勝(1,000)、織田有楽(400)、
…数で上回り攻める東軍、計44,600、しかし西軍も粘ります。

午前10時頃、もたつく東軍に業を煮やして家康が本陣を前線に移します。
「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-徳川家康 最期の陣跡
(徳川家康最後の陣跡)
三成の陣の真ん前、距離800mってところじゃないですかね1キロ切ってます…ついに家康を関ヶ原のど真ん中までおびき出したのです…光成は小躍りして喜ぶほどだったと思います…家康の首を取る完全勝利を確信したことでしょう。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-石田三成の目線で関ヶ原
(石田三成の目線での関ヶ原)
すぐさま三成は、小早川秀秋、毛利勢に対して攻撃の狼煙をあげます…しかし、三成が見たものは、動かない毛利勢、逆に味方の大谷勢に突進する小早川軍の姿でした。

午後0時頃、小早川秀秋が西軍を裏切り大谷隊を攻撃。
午後1時頃、脇坂ら四将も西軍を裏切り、西軍総崩れとなる。
午後2時頃、石田隊壊滅し、三成、伊吹山中に落ちる。
午後2時頃、島津隊、敵中突破を敢行する。
午後4時頃、東軍の圧勝で戦闘が終了する。
午後5時頃、家康、陣場野で西軍将士の首実検を行い、東軍諸将と引見する。
天下分け目の大開戦、関ケ原の戦いはたった一日で終了したのです。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-松尾山・小早川秀秋陣跡(15,000)
(松尾山・小早川秀秋陣跡(15,000))
小早川秀秋が陣取った松尾山は、麓の駐車場から陣跡・山頂まで徒歩40分…かなりきつい山道です。
しかし、ここは最高の特等席、関ヶ原の全域が見渡せます…厳しい山道ですが関ヶ原を理解するには是非、登ってもらいたい…絶好のタイミングで大谷隊を攻撃した小早川秀秋の気持ちが理解できるような気がします。

■やはり、三成は実戦経験に乏しい事が負けた最大の要因、盟友の大谷吉継は負けを覚悟して戦いに望んだようです。…大谷は小早川の裏切りも明らかに事前に察知していた布陣を敷いていました。

■実際に関ヶ原を踏破して感じるのは、三成びいきの私ですがやはり、三成と家康では格が違いすぎる…役者が違うと言わざるを得ませんね。
因みに当社でも<歴史への旅>シリーズで沢山の関ヶ原ツアーのご用意があります…中には私がお奨めする「大垣城と関ヶ原のセットのツアーもあります」…関ヶ原に行かれる際は、是非、当社、クラブツーリズムをご利用いただければ嬉しいです。

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス