「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(コリント人への手紙第二5-17)


人生のやり直しは可能だろうか。多くの人は自分は変わりたい、やり直
したいと願っている。できるだろうか?の問いに聖書は、できる、と回答
している。やり直し、「新しく造られた者」になることは可能、人生変革は
出来ると回答している。              

 私たちの人生は、自分の考え、心構えで生きてきたわけだから、今ま
での、敗北して来た道のりや失敗は心構えを変えることでこのことが可
能になる。心構えを変えることがまず1歩。ただ、そのことと同時に大切
なことはそれを誰と一緒にするかだ、とも問うている。     

 朱に交われば赤くなる。類は類(友)を呼ぶ。いままでと、おなじ環境
ではできない。今、あなたに一番影響を与えているのは、あなたを取り
巻くあなたの環境、あなたの友、それを変えなさいと聖書は言う。          

 「キリストのうちにある」イエスを友としなさい。そうすれば、イエスという
色にあなたも染まります。人間中心でなく、神中心の人生が歩めます。
「だれでも」とありますから、もちろんあなたも、わたしもです。あの醜い
さなぎが、美しい蝶に変わるように、新しく造りかえられます。古い、汚れ
た自分中心から。   



「 少しだけ蒔く者は少しだけ刈り取り、
豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります 。」

(コリント人への手紙第二9―6)


 蒔かぬ種は生えぬ。けちって少ししか種を蒔かねば、少ししか収穫
できない。大きい収穫を望むなら、大きく種蒔きをしなければならない。
最初ケチな考えで出発すると、最後はケチな結果に終わりますよ、と
の戒めである。同時に人にあたえる場合も同じで、惜しんだりけちった
りすると、人からの見返りも、少ないですよとの意味もこめられている 

                                 
  聖書は私たちの種、それはお金以外にも、時間や能力、知恵やエ
ネルギー、奉仕、手伝い等有形無形に持っているさまざまな種を「豊か
」に、十二分に蒔きなさい、他人に、社会に使いなさい、と勧めている。
持てる種が金だと他人には使わないのはまだしも、減らない、無尽蔵
にある、能力や知恵を蒔かない、使わない人が多いのはどうしてだろう。
時間やエネルギ-を人のために使わないのはなぜだろう。             

日本でもやっと近頃、ボランテアの考えが浸透してきたが、国中に豊か
にその種がまかれると、日本ももう少し豊かになれるのが。もっと種を
まくことだ。もっとも、NPO(特定非営利法人)の名を使い、ボランテア
のうわべで、悪質なことをたくらむ連中は後を絶たないが。









イタリヤのパレートが提唱した80対20の法則というのがある。少数の20
に的を絞り込み、重要な80のエネルギーをつぎ込めば、経済効果のみな
らず、人生の成功の効果に役立てとしている。               

 人生は何を目標とするかで、その価値はおおいに変わる。目に見えると
ころを足場とするか、そうでないかである。見える世界から出発をすれば、
目標は限定されてしまう。見える世界の現実は、目標や夢を押しつぶす
力が十分すぎるほどあるからある。聖書の世界は見えないことから出発
する。             

 仮に80対20に応用すれば、目標をたてる場合、80の目に見えている
世界に頼むのか、20の見えていない世界に的を絞りこむかである。現実
を見ることは時により、現実から逃避しないことを意味するだけの場合が
ある。80という圧倒的多数の現実の情報に埋没するのでなく、20という、
見えないがその可能性に懸けるかである。聖書の教えは見えないところ
に、よって立つ、楽天の法則なのである。
「確かに、私たちは見るところによってではなく、
信仰によって歩んでいます。」

(コリント人への手紙第二5-7)


 その昔、見えていないアメリカをめざして、旅だったコロンブスのように、
近くは、見果てぬ月に向かって旅立った宇宙飛行士のように、そのはじ
めは、すべて見えていない所、しかしあると信じ、行けると信じ、成し遂げ
られると信じて旅だった者たちのみが、一人可能を現実にできたのだ。





「私のうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべて
を越えて豊かに施すことのできる方。」

(エペソ人への手紙3-20)

A「望みが小さくはありませんか?」

 B「望みが大きすぎると、それにおしつぶされてしまいます。」

A「大きければよいのでなく、あなたにとってその望みは、限界をつ
けたり、限定をした望みでないかどうかですが。」        

 B「私は、すべての望みに裏切られました。ですから、望みをもつこ
とが怖いのです。」 


 A「そうそう、そういう事です。今まであったこと、経験したことから、
もう望みは自分には必要がないんだって。」 

 B「どうすればいいのですか?」     

A「聖書はできるかどうかよりも、したいかどうかを聞いています。
本当に自分がして、楽しいことを探すことじゃないですか?想像に
蓋をしないこと。このことをするために、自分の命があるぐらいまで
いければ、幸せだけど、仮にそうでなくとも、本心からなにがしたい
のか自分に問うことが必要じゃないですか。建前(たてまえ)さん
じゃなく、本音(ほんね)さんに聞いてみたら。
「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すこと
のできる方。」神様に自分の思いのすべてを聞いてみたら。








日本の観光地で、必ず目立っているのが、大きな寺院や仏閣である。しかし、だから、日本は信仰の厚い国だとか、まして仏教国とは言わないだろう。なぜなら、現存の寺院や仏閣は文化遺産や文化遺跡であって、信仰とは直接、結びついていないからだ。同様のことは、欧州のもそれがあたる。キリスト教の大殿堂が沢山見られる。これもまた、文化遺跡なのである。


 「教会はキリストのからだ。」はこうゆう信仰と外見が一致しないことへの警鐘である。信仰は建物ではないというのだ。その証拠にキリスト教の建物、教会が殆ど無いが、今爆発的に信者が増えている国がある。燐国、中国である。その信者のかずおよそ、9千万とも1億とも言われている。中国政府は経済の自由主義と異なり政治は共産主義であるが、じつのところ、実質的に宗教を禁止している。キリスト教に対する弾圧はすごい。聖書の持ち込みは禁止である。宣教師も多数逮捕、投獄そして、拷問されている。マスコミも見て知らぬ振りである。



 中国には政府公認のいくつかの教会はあるが、いつも政府に監視されているので、ほとんどは、秘密裏に家庭や集会場で、聖書が語られ、礼拝がおこなわれている。その動きは、とどまることを知らない。この動きを家の教会とか、ハウスチャーチ運動と言われ爆発的な動きになっているが、要は教会という建物はなくても、信仰は進む例の一つである。じつはキリスト教はその当初200年の間は、本格的は教会という建物はなかったと言われている。



だとすると、これは、形式にこだわると中身、内容が無くなる例として、われわれは学ばなければいけないのだろう。日本の経済もかつては、重厚長大として、会社の建物も売り上げも、社員数もただ大きければ良いという時代があったが、いまもその残影を引きずっているのがいる。要は中身である。実質である



「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生き               
ているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
               (ガラテヤ人への手紙2-20)



 聖書の中心メッセージはイエスキリストの十字架である。十字架に
よって、我々の罪が解放されて、神との和解ができ、だれも、神とも行
き来ができるというのが、教理の主なところだ。十字架は、刑罰のなか
で最も過酷なものである。あまり過酷なので、現在世界では、十字架
刑を禁止している。そんな、十字架に聖書を信じる者はつけられるとい
うのである。恐ろしい話である。



 しかし、一端聖書を信じた人間は、この聖句を簡単に受け入れる。な
ぜかこの聖句は恐怖の言葉でなく、人生の大逆転を含むことばだから。
人生が180度変えられることを意味することばだから。イエスが十字架
に架かった、しかし、よみがえって永遠の命を得る。十字架に架かった
イエスを見上げ、そのことによって、我々が今までの人生でなく、全く新
しい生きが約束されているのである。そんな意味がこめられている。



 我々はどんな時代にいきているのだろうか。聖書の立場はこうである。
イエスが十字架に架かった。それで、すでに罪から解放された。だから
「すでに」罪の身代わりは済んだ。しかし、イエスはまたこの世に来ると
いう。これを再臨という。時期はわからない。しかし、最初来たとき、旧
約聖書の数百のメシヤ=救世主が来るとの約束が実現した。こんど再
び来るとの約束も聖書の中に、数千とある。だとすれば、「いまだ」来て
いないイエスを待つ時代ともいえようか。我々は「すでに」と「いまだ」の
狭間の時代に生きているのだ。





「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み。 」

 (ピリピ人への手紙3―13)

一生懸命。ある目標に対して、人生の命をかける、一生このようなことのできる人はうらやましい。素晴らしいことをなし遂げた人達はみな命の燃焼を、「一事」一つの目標に対して「励み」すすんだ人である。

 この言葉は聖書の真理を伝えることに使命に燃えたイエスの弟子のパウロのものである。また、パウロは目標にむかって進む際のこころ構えも説いている。「うしろのものを忘れ」とあるように後ろ向き、消極的、否定的なものから離れたのである。後ろにこだわれば、必ず前進の妨げになることを知っていたからである。また、前進するには、「すでに達していることころを基準として」進むことも必要だとする。

 一生懸命は、日本では一所懸命から来た言葉とされる。一所=ひとつの所=土地に、懸命=命をかける、鎌倉武士からの伝統の言葉として。しかし、バブル崩壊の歴史に見るように命を懸ける対象を間違うととんでもないことになる。





ユダヤの格言に、してしまったことを悔やむより、したかったのにしなかったほうが、悔やみが大きい、というのがある。わたしたちは希望をもってスタートしても、いくつかの失敗で打ちのめされてしまう、経験はだれにでもある。

 しかし、なすことによる失敗と、なさなかったという未練とを天秤に懸けることはできないというのだ。失敗には、教訓というお釣りがくるが、未練には、なにも残らない。残らないどころか、可能性という無限の宝も失うことになる。                  

 聖書の神は、無限の可能性を人間に約束した。希望という可能性は、まずなにかをなすことを第一歩とする。それが、未来に進歩をもたらすのか、過去に悔やみのみ残すかの別れ道となる。失敗も経験となり、それが成功の肥やしになるのである。

 世界のあらゆる進歩は失敗の上にそびえ立っている。だとすれば、個人の場合はなおさらのことである。成功とは、段階を追って達成する過程とするなら、その階段の何箇所にも失敗という踊り場があるのだ。





  日本人の99.9%は聖書の神を信じていない。しかし、聖書の神どころか、そもそも神を信じていない。しかし、無神論者の多くの方が、アンケートではもし神を信じるなら、私は聖書の神を信じたいと答えている。認められているが、信じられてはいないのが、聖書であり、聖書の神である。 

           

 みとめるこころと信じるこころの壁は、ヒマラヤの山より高く、太平洋より深い。日本人が自然を愛し、道徳的にも、世界の国々に劣るわけではない。一部の嘆きはあるが、日本は未だ健全な倫理道徳を大多数の国民が有していることは、外国へ旅行した日本人のそろえて言うことばである。中に入るときは分からないが、外に出れば分かる典型的な例である。


しかし、圧倒的多数の人が聖書もその神も信じないのはなぜか。多くの理由が有ろうが、その一つに、人間中心の、言い換えれば、人間を基準にするかどうかである。大きな勢力を持つ、新興宗教も本音は別にして、人間主義を強調する。しかし、聖書は神に対する謙遜、遜りを求める。こうなると、99.9%やはり、いない。日本は人が中心の国だ。


うわべだけのヒューマニズムあふれる日本、人間中心主義の日本、しかし、聖書は、神中心の人間主義をもとめる。宗教を唱えながら神なしの人間主義を説くのは矛盾だとする。聖書はあくまで、神中心なのである。