(コリント人への手紙第二5-17)
人生のやり直しは可能だろうか。多くの人は自分は変わりたい、やり直
私たちの人生は、自分の考え、心構えで生きてきたわけだから、今ま
朱に交われば赤くなる。類は類(友)を呼ぶ。いままでと、おなじ環境
「キリストのうちにある」イエスを友としなさい。そうすれば、イエスという
ユダヤの格言に、してしまったことを悔やむより、したかったのにしなかったほうが、悔やみが大きい、というのがある。わたしたちは希望をもってスタートしても、いくつかの失敗で打ちのめされてしまう、経験はだれにでもある。
しかし、なすことによる失敗と、なさなかったという未練とを天秤に懸けることはできないというのだ。失敗には、教訓というお釣りがくるが、未練には、なにも残らない。残らないどころか、可能性という無限の宝も失うことになる。
聖書の神は、無限の可能性を人間に約束した。希望という可能性は、まずなにかをなすことを第一歩とする。それが、未来に進歩をもたらすのか、過去に悔やみのみ残すかの別れ道となる。失敗も経験となり、それが成功の肥やしになるのである。
世界のあらゆる進歩は失敗の上にそびえ立っている。だとすれば、個人の場合はなおさらのことである。成功とは、段階を追って達成する過程とするなら、その階段の何箇所にも失敗という踊り場があるのだ。
日本人の99.9%は聖書の神を信じていない。しかし、聖書の神どころか、そもそも神を信じていない。しかし、無神論者の多くの方が、アンケートではもし神を信じるなら、私は聖書の神を信じたいと答えている。認められているが、信じられてはいないのが、聖書であり、聖書の神である。
みとめるこころと信じるこころの壁は、ヒマラヤの山より高く、太平洋より深い。日本人が自然を愛し、道徳的にも、世界の国々に劣るわけではない。一部の嘆きはあるが、日本は未だ健全な倫理道徳を大多数の国民が有していることは、外国へ旅行した日本人のそろえて言うことばである。中に入るときは分からないが、外に出れば分かる典型的な例である。
しかし、圧倒的多数の人が聖書もその神も信じないのはなぜか。多くの理由が有ろうが、その一つに、人間中心の、言い換えれば、人間を基準にするかどうかである。大きな勢力を持つ、新興宗教も本音は別にして、人間主義を強調する。しかし、聖書は神に対する謙遜、遜りを求める。こうなると、99.9%やはり、いない。日本は人が中心の国だ。
うわべだけのヒューマニズムあふれる日本、人間中心主義の日本、しかし、聖書は、神中心の人間主義をもとめる。宗教を唱えながら神なしの人間主義を説くのは矛盾だとする。聖書はあくまで、神中心なのである。