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12月8日、長嶺ヤス子公演「じょんがら」が行われ喝采を博しました。私もアドヴァイザーとして参加しました。以下は作・演出の滝沢いっせい氏のスクリプトのイントロの部分です。スクリプトは外国人演技者、ミュージッシャンのため私が1夜で英語に翻訳しました。

じょんがら 長嶺ヤス子
構成 滝澤いっせい

かつて作家五木寛之氏から「平成の河原乞食」と称された長嶺ヤス子。彼女のこころの中には、流浪する芸人、虐げられし人々、零落して生きる者たちへの共感が常にある。その者たちの哀しみ、苦しみ、恨み、そして誇りに彼女は共鳴する。彼女の所作一つひとつが、彼女の心臓の鼓動一拍ごとが、その者たちへの愛情を湛えている。

新作「じょんがら」は、長嶺ヤス子が自らの情念の根っこを探る作品となるであろう。彼女は、東北会津若松の出身である。歴史を見るに、東北はつねに「虐げられて」きた地であった。古くは弥生に駆逐される縄文として、ミヤコに対極する蝦夷として、額に矢じり突き刺さり敗走する平将門として、温暖豊穣の西に対する寒冷飢餓の東として、薄倖の乙女たちの供給地として…
今この平穏黄昏た時代となって、そうした負の歴史はあまり顧みられることはなくなった。しかしそこに土着する人々のこころの薄皮を一枚一枚剥いでいけば、依然としてある種の暗い情念が渦巻いている。
そのひとつの化身が、「平成の河原乞食長嶺ヤス子」と言っては過言であろうか。

じょんがらは、越後瞽女が東北に伝えた「新保広大寺」をもとに発展したという説がある。盲目の旅芸人、吹雪のみち、寒さに耐え数珠つなぎに歩いて行く女たち、藁ぶきの瞽女宿、揺らぐ燈明に照らされた板の間、集った人々の光る眼、三味の一弦の響きで始まる唄、聞き入る丸い背中、語りにこぼれる素朴な涙…既にしてそこには豊かな情景がある。
それはやがて津軽三味線の伴奏とともに独特の発展を遂げ、時に力強く時に切々と語りかけてくる新たな芸能となった。しかしかたちは変わっても、心の襞に触れてくる情念は不変である。
 
今回の物語は、その場で語られるひとつの物語ととらえられてもよい。
薄暗い板の間で眼だけが白い人々の前で繰り広げられる一つの伝説あるいは幻想

Jongara A Dance Drama for Yasuko Nagamine
Introduction
Writer Hiroyuki Itsuki once called Yasuko Nagamine a “ Presentday Riverbank Beggar ” ( a derogatory term for performers, based on the fact that the woman who started KABUKI in 16th century performed at the riverbank) . Nagamine has always shown her sympathy for the poor, oppressed including the wandering artists. Her inner self resonates with their sadness, pain, bitterness and pride. Her every movement, every pulse of heartbeat is full of love for those people.

Jongara, the new production, will delve into the root of her passion, her inner self.
Yasuko Nagamine was born in Aizu-Wakamatsu City of Tohoku district―northern part of Honshu. Historically, Tohoku has always been a district oppressed by the ruling power. In ancient times, as the embodiment of Jomon Culture expelled by the newly coming Yayoi Culture. Later as the land of Ainu against the western Yamato. Then like the Heike Clan leader Taira-no-Masakado fleeing with his brow pieced by an arrow. As an snow-stricken land of famine compared to the rich western region. As a land providing poor young women sold for the rich.
Such history may no longer be valid nowadays. However, if you peel the skin of the heart of the indigenous people one by one, you will find that a dark and bitter passion is still running there. Yasuko Nagamine―Presentday Riverbank Beggar ―is none other than the incarnation of this Tohoku spirit.

Jongara, a music form, is said to have developed from a music genre called “Shinpo-Koudaiji” handed down by the female blind wandering singers called GOZE..
The blind female wandering singers, snowstorm, a troupe of women trudging along in the coldest season of the year, their shabby inn with a thatched roof, their gloomy faces under the candle light in a room with a wooden floor, indigenous people who came to listen to their music revealing only shining eyes under the dim light, singing that starts with a strum of Shamisen lute, rounded backs of the listeners, their unaffected tears―all this conveys a rich atmosphere of the life of GOZE.
Their music developed with the help of Tsugaru-Shamisen lute into a unique style, a mixture of strength and compassionate feeling. Though this new style of music is different from the original, still retains the basic feeling of the indigenous people.

This production could be taken as a story told by GOZE at a dark room with a wooden floor in Tohoku in front of the indigenous people revealing only shining eyes under the dim light, or perhaps a fantasy.

8月18日NHKの研究会で90分の講演をしました。演題は「日本の英語教育について」です。この研究会はNHKのOB諸氏が中心となってできたものですが、殆ど全員がNHK関係の仕事を引き継いだり、大学の講師をつとめたり、現役で働いています。若い人たちも関係者の紹介があれば参加できます。私は4年前、「ドキュメンタリー作家の仕事」を出版した際、質量構成法について講演したのがきっかけで、現在は名誉会員ということになっております。演出家の私が専門外の英語について話すことに疑問をもった人たちもいたことでしょうが、その辺の説明から始めなければならないところが、いささか面倒なところです。内容は本欄で紹介した「英語教育について1-4」を中心に、英語学習における「音」の重要性を力説しました。今回はその目玉としてShakespeareの朗誦を加えました。


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A Kingdom for a Stage


これはヘンリー5世の冒頭の口上で、有名な一遍です。芝居が始まる前のイントロですが、これがきちんとこなせれば名優とされるもので、主役に順ずる俳優がつとめるのが普通です。


O for a muse of fire, that would ascend
The brightest heaven of invention:
A kingdom for a stage, princes to act,
And monarchs to behold the swelling scene.
Then should the warlike Harry, like himself,
Assume the port of Mars, and at his heels,
Leashed in like hounds, should famine, sword, and fire
Crouch for employment. But pardon, gentles all,
The flat unraised spirits that hath dared
On this unworthy scaffold to bring forth
So great an object. Can this cock-pit hold
The vasty fields of France? Or may we cram
Within this wooden O the very casques
That did affright the air at Agincourt?
O, pardon!
And let us, ciphers to this great accompt,
On your imaginary forces work.
For ‘tis your thoughts that now must deck our kings,
Carry them here and there, jumping o’er times,
Turning th’accomplishment of many years
Into an hourglass-for the which supply
Admit me Chorus to this history,
Who prologue-like your humble patience pray
Gently to hear, kindly to judge our play.

Act 3-1
これはフランス大軍との決戦で兵士に檄をとばすヘンリー5世の演説の冒頭。

Once more on to the breach, dear friends, once more!
Or close the wall up with our England dead.
In peace there’s nothing so becomes a man
A modest stillness and humility,
But when the blast of war blows in our ears,
Then imitate the action of the tiger!!



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Hamlet


皆さんおなじみのハムレットの独白(英語ではasideといいます)。

To be or not to be, that is the question
Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And, by opposing, end them.

これはハムレットがクローディアス国王の姦計でイングランドに送られる途中の独白。
How all occasions do inform against me,
And spur my dull revenge ! What is a man,
If his chief good and market of his time
Be but to sleep and feed? A beast, no more.
Sure He that made us with such large discourse,
Looking before and after, gave us not
That capability and god-like reason
To fust in us unus’d.

レアティーズと剣の試合をすることになったハムレットに親友のホレーシオが危険を感じ、止めるように説得したときの答えです。
There’s a special providence in the fall of a sparrow.
If it be now, ‘tis not to come. If it be not to come, it will be now.
If it be not now, yet it will come. The readiness is all.



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Twelfth Night


男装の麗人ヴァイオラが主人のオルシーノ公爵の意をうけてオリヴィアに恋心を伝える場面、しかしこの句の真意はヴァイオラの公爵にたいする恋心の爆発です。

O, if I did love you in my master’s flame,
With such a suffering such a deadly life,
In your denial I find no sense,
I would not understand it.
(Why, what would you?)
Make me a willow cabin at your gate
And call upon my soul within the house,
Write loyal cantons of contemned love,
And sing them loud even in the dead of night;
Haloo your name to the reverberate hills,
And make the babbling gossip of the air
Cry out “Olivia!”

シェイクスピアの朗誦は体力が要ります。3週間の特訓を行いました。その結果、横隔膜を総動員した発声で外部の人が“何事か”と会場に駆けつけるありさま。私にとってはストレスが解消された感じでした。出席者の1人が「横田さんの朗誦を聴いて、はじめて言わんとしていることが分かりました」と言ってくれたのが嬉しかったです。





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7月1日に日大芸術学部で大学院生と一般学生を相手に90分づつ2コマの授業をおこないました。日大の宇佐美昇三先生から写真をいただいたので、その様子を公開します。

大学院のほうは生徒は5人と少ないが、それだけに授業の中身は濃くなるのは当然です。
拙書「ドキュメンタリー作家の仕事」の根幹をなす“質量構成法(リアリティ構成法)”とは何か?が講義の中心ですが、学生のなかにすでにメソッドを習い俳優を職業にしている御仁もいたので、演技論に話がとぶこともありました。質量構成法はいわゆるBBC方式のアンチテーゼをなすものですが、BBC方式の代表作として有名なケン・ローチ監督の作品「ピケをこえなかった男たちThe Flickering Flame」と私の「翔べ愛しの大五郎 Love Works a Miracle」の1部を映写し、両者の違いを浮き彫りにしました。
また新しい試みとしてランダムに用意した10枚の写真を“自分の感性で並べ替える”という実験を行いましたが大好評でした。


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一般学生は50人の大所帯。8つのグループに分けて写真の並べ替えを行ったところ、これが10人10色で面白い!学生たちも人の感性がそれぞれこうも違うのかと驚いたようで、大成功でした。学生の専攻は写真、文芸、演劇、映画、音楽など多彩ですが、私が提唱する「質量構成法」はあらゆる芸術に応用可能なことを強調しました。ケン・ローチの作品と私がNYで撮った「NYゲットーの星ビンボウ」を1部上映しましたが両者の表現方法の違いにみな驚いていました。(学生の感想文があとで届きましたが、それぞれ気合の入った思いが書かれており、私自身にも励みになりました)。



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授業が終わってからは恒例の喫茶店での懇談会、若い学生に囲まれてアドレナリンが出っぱなしの1日でした。8月1日に我が家で行う「花火パーティ」にはかなりの学生が参加する予定です。


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言葉の習得はゼロサム ゲームでは計れない

「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は中曽根康弘元総理とのテレビ対談で「小学校での英語教育は国を滅ぼす」と言い放った。日本語の習得が充分でない小学生が英語の勉強を強要されれば、日本語を勉強する時間が減少し、国語の能力が低下する。結局、日本語も英語も中途半端にしか身につかない変な日本人が増えることになる。小学校の英語教育は日本文化もろくに理解できない「亡国の民」を量産するだけだ、というのである。

小学校5年生のときから英語の勉強を始めた私などは自分が「亡国の民」になった気分にさせられる。自分は“日本語も英語も中途半端にしか身につかず、和歌や能などの日本の古典にも無縁な恥ずべき日本人なのか”? 私は子供のころから日本の古典文学に接し、自作の和歌集「Anseiの和歌100選」というホームページを開設している。またプロの翻訳家でもある。しかし、藤原正彦氏のセオリーによれば、こんなことはあり得ないはずではないのか?

藤原正彦氏はたしかに立派な知識人・文化人なのであろうが、言語にかんしてはその本質を理解していないように思える。言葉は“氏がいうようなゼロサム”では計れない玄妙なものである。英語を3勉強すれば日本語は7になってしまうというようなゼロサム ゲームは適用されないのだ。むしろ、両者は重なって相乗効果を生むのである。私はこれでも物書きの端くれだが、色々な人の文章を読んで思うのは、外国語を真剣に学んだことのある人と、そうでない人の間には彼らの書く日本語に明らかな違いがあることである。それは文章の“文法的な強靭さ”や“構造的論理性”に如実に現われる。ある道に秀でた素晴らしい文化人が書く文章に、ときどき文法が怪しかったり、論理が一貫していなかったりすることがあるが、私はその理由の1つに“外国語を学んだ経験がないこと”があると睨んでいる。これは1種の“勘ぐり”だが私の直感はけっこう当たることが多い。

テレビで藤原氏は「最低なのは英語を見事に喋りながら日本のことを聞かれて何も答えられない日本人だ」と言っていた。しかし、英語を見事に喋る日本人などそういるわけではない。何万人に1人であろう。そんな人が日本のことを知らないはずはない。あるいは、「見事に喋る」というのは見かけだけで、酷い英語を喋っているのかもしれない。ところが、日本人のなかには英語を喋らない人でも日本文化に無知な人はごまんと居る。どうせ日本文化を知らない同士であるならば、少しでも英語を喋るほうがまだましというものではないか。藤原氏は「日本文化を知らないこと」を「英語を勉強したためだ」とこじつけたいようだが、私には全く説得力をもたない。

私は小学生の英語教育には大賛成だ。その理由は英語の発音にある。口や顎、舌が未発達なうちに発音の基本をしっかり身につけさせることが大事。大人になってからでは、口内筋肉が固まってしまっているため発音矯正がたいへん難しくなるからだ。小学生は難しいことはさておき、発音の基礎をしっかり学び、大人になったとき恥をかかないようにして欲しいのである。



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フジテレビに勤めていたころ、NYに5年も滞在したことのある人が「・・・に興味がある」というとき、I’m interested… ではなく I’m interesting… というので大いに困ったことがあります。interested という“胸にどかっとくる音感”がこの語の内容を示しています。英語の意味は音感と一緒に覚えなければなりません。interesting は外に働きかける意味で、自分が胸に“どしん”と受け止める音感はありません。音を重視した語感を身につければ、上述した馬鹿なミスはあり得ないのです。

子供のころNHKラジオの基礎英語講座で勉強していましたが、松本享先生は朗々とした美声で有名でした。先生はときどき講座の内容に関係なく英語の“音の美しさ”をデモンストレートすることがありました。シェイクスピアのジュリアス・シーザーから有名なアントニーの演説を朗々と読んでくれました。国民的英雄シーザーを刺殺したブルータスを微妙な言い回しで擁護するふりをする演説です。そのなかで何度も繰り返される Brutus is an honorableman が子供心にも妖しく胸に残りました。松本享先生の英語はいま思えばアメリカ英語でしたが、それでも詩の朗読は魅力的でした。英詩に興味をもったのはこのときです。

Robert Frost の Stopping by Woods on a Snowy Evening の最終部:
The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
何度この句を朗誦したことか!

T.S Eliot の有名な The Love Song of J. Alfred Prufrock の冒頭:
Let us go then, you and I,
When the evening is spread out against the sky
Like a patient etherized upon a table;
Let us go, through certain half-deserted streets,
The muttering retreats
Of restless nights in one-night cheap hotels
And sawdust restaurants with oyster shells:
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent
To lead you to an overwhelming question..
Oh, do not ask, ‘ What is it? ’
Let us go and make our visit.

In the room the women come and go
Talking of Michelangelo.
以上はこの歳になっても復唱できます。

William Faulkner の The Wild Palms 最後の言葉:
Between grief and nothing I will take grief.

これには泣いた。この小説を読んだすぐ後に見た、ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」でこれが出てきたのでびっくり。ベッドシーンの前、米留学生ジーン・セバーグがやくざ役のベルモンドに「ウイリアム・フォークナー知ってる?」と聞くと彼は「お前のレコか?」と答える。彼女はかまわずこの部分を読んで「あなたならどっちを取る?」と聞くとベルモンドは意に介さず「俺は nothing のほうがいい」と言う。 ゴダールやるね!私はすっかりゴダール・ファンになってしまった。

Samuel Taylor Coleridgeの Kubla Kahanの冒頭:
In Xanadu did Kubla Kahan
A stately pleasure-dome decree:
Where Alph, the sacred river, ran
Through caverns measureless to man
Down to a sunless sea.

早稲田の学生だったころ、ケンブリッジ出身の先生 Dr. Friends の名調子が偲ばれます。
英語ってなんと美しい言葉なんでしょう!
英語の音にたいする憧憬なしに私の英語学習は成り立ちません。英語を喋ることが曲りなりにもできるようになったのは英詩のおかげです。

赤ちゃんは大人のしゃべる言葉を「耳で聞いて、それをしゃべって」言葉(つまり文法)を覚えます。3-4歳までに言葉(つまり文法)の基礎はできてしまうそうです。幼稚園、小学校に上がるにつれて文字を覚え、言葉の習得はさらに向上します。言語学的には、目で見たり読んだりする受身の行為によって覚えることを知的記憶(intellectual memory)と呼び、耳や口などの肉体器官を使って覚えることを運動記憶(motion memory)と呼ぶそうです。赤ちゃんは運動記憶で言葉の基礎を学び、後に知的記憶を動員してさらに言葉を覚えていくのです。つまり運動記憶が主で知的記憶は従です。

明治以降、わが国では英文解釈とか英文法詳解とか難しい言葉を使って100%知的記憶に頼った英語教育を続けてきました。運動記憶と知的記憶の両者があいまって理想の英語教育がなされる筈なのに、より大事な運動記憶を無視したのですから、それはまさに片肺飛行。日本人の英語力が進歩しなかったのは当然です。戦後になって英会話ブームが起きました。最近はカセットやCDなどが大量にでまわり、ネイティヴ・スピーカーの発音に接する機会が格段に増えてきました。しかし、その割には日本人の英語は進歩を見せていません。どうしてでしょうか?

日本中で英会話がさかんです。でも会話、会話といって Hi, how are you? とかWhere did you go today? などとやっていますが、これにどんな意味があるのでしょうか?こんなことを云うために英語を学ぶんですか? 私は会話という言葉自体が大嫌いです。会話教育そのものに問題があるような気がします。 言葉は人間の本質です。人間存在の根っこです。「初めに言葉ありき」というように、人間だけに与えられた高度な精神の営みです。私たちはもっと言葉に尊敬の念を持つべきではないでしょうか?私の意見では、「言葉の習得には肉体と精神が言葉の魅力にどっぷり浸からなければならない」のです。言葉の魅力を肌で感じてはじめて進歩があるのです。次回はこのことについて述べます。


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日本人の英語べたについてよく言われていることは、「日本人は文法は知っているがしゃべれない。文法などどうでもいいから、会話に力を入れるべきだ」ということである。大学入試などに会話の聞き取り問題が増えているという。
文法などどうでもいい? でも、これって変じゃないですか?

私の意見:
「言葉を学ぶことはその言葉の文法を学ぶこと」、それ以上でも以下でもない。赤ちゃんは大人の言葉を聞いている間に自然と文法を覚えてしまう。大人はそういかないので外国語の習得が難しくなるわけだ。したがって“如何に効率よく文法を身につけるか”が問題になる。リィーディングも作文も会話も文法を学ぶ方便にすぎない。全てのゴールはただ1つ・・・“文法の習得”である。

日本人が英語をしゃべれないのは、英語を不得意とするのは、英語の文法を知らないからだ。それだけの話し。それ以上でも以下でもない。しからば文法を身につけるにはどうすれば良いか?大問題である。みんなが苦労している。私はこう云いたい。「徹底して英語に馴れること」。それ以外に妙案はない。しかしその際、決定的な意味をもつのは“音”である。英語を学習するに当たって、「“音”から入る…音に耽溺する・・・」これが文法を習得するうえで決定的な意味を持つ、と私は自分の経験から言いたい。(音と文法って関係あるの?と思う人があるでしょう。その辺は次の稿で詳しく説明します)