引用 Wikipediaより「人生」

人生(じんせい)とは、人間 がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのことである。


引用 Wikipediaより「人間」

人間(にんげん)は、社会 的なありかた、関係性人格 を中心にとらえた「ひと」あるいは「 」のことである。また、その存在のありかた全体を指すこともある。


引用 Wikipediaより「ヒト」

生物学におけるヒトとは、生物 の一種であり、動物界 後生動物 亜界 脊索動物門 羊膜亜門 哺乳綱 真獣亜綱 正獣下綱 霊長目 真猿亜目 狭鼻猿下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト下科 ホモ属 サピエンス種 サピエンス亜種 に属する種である。「ヒト」はいわゆる「人間 」の生物学上の標準和名 である。生物学 上の としての存在を指す場合には、カタカナを用いて、こう標記することが多い。


(先にいいますと、どうでもいい独り言の殴り書きです)

とのこと。


私怠惰な弱者は、基本的に、「そのときそのときでどうにかなればいい」という理論の持ち主です。

それが、”道徳的”、”倫理的”として正しいか、”TPO”を弁えているかどうかは、正直分かりません。

誰かの役に立っている人間か、と言われれば、首を横に振るしか、自分を正しく主張することはできません。



ですが、(なんか深いテーマですが、私も理解していません)そもそも人間として正しいということはどういうことなのでしょうか。先んじていうと、理解していません。

例えば、Aさんは、「Bさんはとてもいい人」と言います。

しかし、Cさんは、「Bさんは極悪非道な人」と言います。

これで、Bさんの人物像は分からなくなります。

少し考えれば分かるよう、これは主観性によって、対象の輪郭や中身が違って見えるからです。

至極当然、最小単位の”人間”として、同じ人間は一人も存在しません。多分。


上記の例のように、人間一人一人、何か物を見るときに、その対象はとても差があって見えます。

ですので、その対象の物には、賛否両論が生じるわけです。


また例を出します。

路上に紙で出来たゴミが落ちていました。

近くには自動販売機が、その横に 【カン】 と書かれたゴミ箱がありました。

果たして、そのゴミを、カン専用のゴミ箱に入れて良いのでしょうか。


一人はこう言います。「ゴミが落ちているのならば、捨てればよい」と。

一人はこう言います。「それはカン専用なのだから、捨ててはいけない」と。


この例の正解を導くには、全世界の人間が討論すればよいのですが、それは非現実的です。

ですので、ひとまず、最も多数の意見が正しいということになるでしょう。

(素直に言うと、これは自分で考えただけなので、誰かがもう結論を出しているかもしれません。)

しかし、冷静に考えてみれば、最も度数の高い意見が、本当に正しいかどうかは分かりません。
当然、その最も度数の高い意見というのは、その意見を挙げた人間にとって、一番欲するべきことです。
ですが、そうでない人間にとってその度数の高い意見というものは、求むべきことではありません。


ちよっと書いてて眠くなったので一旦加筆を止めます。


寒い日が続きますね

寒いと、眠気も増します・・・。

すごく眠いです。ハイ。おひつじ座