— 私のまなざしに映った三つの言葉**

金堤(キムジェ)の田園をわたる風は、
まるで時そのものの呼吸のように静かです。
その風に導かれるように歩いていくと、
私はいつも、甑山教(チョンサンギョ)の道場の前庭に立っています。

宗教的な理由ではありません。
ただ、その場所に足を置くと、
心の奥に沈んでいた波がそっと静まり、
忘れていた本来のリズムが戻ってくるのです。

石柱に刻まれた三つの文字——
解寃・相生・報恩

それらは石の冷たさとは逆に、
長い時間を経てなお温もりを失わない言葉であり、
私の心の内側に静かな灯りをともしてくれます。


● 解寃(かいえん):ほどけるという救い

解寃とは、
胸のどこかに絡みついた痛みや悔いを
そっとほどいていく行為です。

誰かの嘆き、
時代に押し込められた涙、
語られなかった怒り——

それらが積み重なると、
人の道も、社会の流れも、重く閉ざされてしまいます。

解寃とは、
見えない塊をひとつずつ解きほぐし、
行き場をなくした思いに静かな出口をつくること。

それは過去を忘れるためではなく、
未来をやさしく開くための“準備”なのだと感じます。


● 相生(そうせい):互いが互いを育てる世界

相生という言葉には、
大きな声よりも深い説得力があります。

誰かを打ち負かすためではなく、
誰かの存在によって自分が生かされ、
また自分の存在が誰かを支える。

そうした関係が静かに連なっていくとき、
世界は少しずつ形を整えていきます。

衝突の多い時代だからこそ、
相生は理想ではなく、
より確かな希望の形として心に響きます。


● 報恩(ほうおん):受けた光を、再び誰かへ返す

報恩とは、
感謝の言葉を述べるだけではありません。

生を与えてくれた両親、
学びを授けてくれた師、
社会が用意してくれた場所、
大地が与えてくれる恵み。

そうした“光”を受け取りながら、
いつか別の誰かへそっと手渡す——

その静かな循環こそが、
世界を曇らせずに保つための
もっとも透明な営みではないでしょうか。


● 三つの言葉の前で立ち止まるとき

私は甑山教の信者ではありません。
それでも、三つの言葉を前にするとき、
いつも歩みを止め、
自分の心の影と光を確かめてしまいます。

解寃は、滞っていた息をゆっくりと整えること。
相生は、共に進むための道をもう一度開くこと。
報恩は、受けたものを静かに返すこと。

姜甑山が見つめた未来への扉は、
この三つの言葉によって支えられていました。

そしてその扉の前で、
私は思い出します。

生きるとは、
誰かの痛みをほどき、
誰かと共に歩き、
誰かから受けた恩をそっと返していく——
その連続なのだということを。