光田健輔
(みつだ けんすけ、1876–1964)は日本のハンセン病療養所「多磨全生園」の初代院長などを務め、
日本の絶対隔離政策(ハンセン病の強制収容・終身隔離)を
確立・推進した中心人物
政府(内務省・厚生省)と強固に連携し、明治末期から戦後にかけて「らい予防法」の制定や運用において大きな影響力を持ちました。
光田と政府の関係は、
1. 「絶対隔離」の推進と技術的基盤の提供
光田は、ハンセン病患者を社会から完全に隔離する「絶対隔離」を唱えました。
「らい予防法」の策定への貢献:
1907年(明治40年)の「癩(らい)予防ニ関スル件」制定以降、1931年(昭和6年)の改正まで、政府のハンセン病対策は光田の意見
(隔離の強化、全患者収容)
に沿って形作られた。
- 無らい県運動:
- 1929年頃から政府主導で始まった、全国の患者を強制的に施設に収容する「無らい県運動」を
- 現場のリーダーとして推進
- 光田の論理: 「浮浪者(浮浪癩)は感染源であるため、強制的に収容すべき」と主張し、
- 政府に隔離法制の必要性を訴え続けました。
- 懲戒検束権の行使と断種手術
- 懲戒検束権:
- 政府は1916年の法律改正で、療養所長に「懲戒検束権」を与えました。
- これにより、光田ら院長は裁判なしで患者を懲罰(監禁など)できるようになり、絶対隔離が強化
- 断種と堕胎: 光田は、療養所内の結婚を認める条件として、男性への「精管結紮(断種)手術」と
- 女性への「妊娠中絶」を強制
- 当時の政府方針の下で「所内秩序維持」の名目で行われました。
- 戦後・「らい予防法」への影響
- 戦後、特効薬(プロミン)が登場し、世界的に隔離政策が放棄される中でも、光田は隔離の継続を
- 主張しました。
- 1953年法改正:
- 1953年に「らい予防法」制定された際、
- 光田ら長島愛生園・菊池恵楓園・多磨全生園の三園長は、参考人として隔離政策維持と
- 懲戒検束規定の強化を
- 訴えました。
- 国との連携:
- 厚生省は、予算獲得や施設管理の効率性の面から、光田が主導する「隔離政策」を戦後も維持する道を選びました。
- まとめ:光田イズムと責任
- 光田健輔は、ハンセン病患者への「愛」を掲げながらも、その実態は強制的な隔離と患者への人権侵害を伴うものでした
- 光田は「日本のハンセン病医学の権威」として政府に協力
- その政策は医学的・公衆衛生学的必要性を超えた絶対的なものであったと評価されています。