AJWW 1984/3/17 桐生市民体育館 中野恵子vs小倉由美 ジュニア王座
Evito-X-PuroさんのYoutubeより
(↓予備用 試合のみ切り出したものです)
ダンプとユウがデビル軍団から離れて髪を金髪に染めたころ、中野恵子はどうしていたのかを追ってみたいと思います。
まずは1984年3月17日に長与千種が返上した全日本ジュニア王座を争い、同期の小倉由美対決します。
同期最大のライバルの小倉vs中野は、中野が極悪同盟に加入するまで、しばらく因縁が続きます。
ぶるちゃんねるには、新人王についてお話しされています。
「輝きたいの」というドラマに出演できず、という話をしていますね。
先輩からは、小倉=優等生でかわいいヤツ、中野=悪いヤツ、みたいな新人時代のようです。
小倉とのインタビューにも話が出てますね。
さて、この試合を見ていこうかと思います。
志生野アナ「フジテレビ、そしてファンの方から両選手に花束が贈られております」
志生野アナ「どうしても地元出身ということもありまして、花束はごっそり小倉由美選手に集中しちゃいましたね」
志生野アナ「中野恵子選手は埼玉県川口の出身なんですけれども、今日は「よぉし」と闘志をひとつ燃やしてもらいたいもんであります」
ちなみに、次のジュニア王座のときは川口近辺で実施されるので花束の贈られ方が露骨に変わります。
志生野アナ「この試合は新人王戦の再現ということになります」
宮本「あのときは中野選手が勝ったんですけどね」
志生野アナ「小倉選手は新人王を戦う時に腰を痛めてましたね。コンディションが非常に悪く、関係者のみるところ、腰の調子が良かったら、中野には負けなかったろう、こういう風に言われているんですけども」
中野は黄色に黒いグラデーションがかかったお洒落な水着で登場です。
ということでゴングで試合開始です。
試合開始とともに少々睨み合いのあと、力比べの取っ組み合いです。
両者とも軽快な動きでお互い技をかけ合います。ライバル同士、相手の攻め方も分かっているだけに、序盤は様子を見ている感じはあります。
志生野アナ「(小倉は)新人の時からこれだけ伸びた選手はいないと言われているんですよ」
志生野アナ「オーディションのときには松永高志社長に言わせますと、身長が足りなかったんですけど、骨格をみまして、この子はきっと強くなるだろうということだったんですね」
中野は途中で噛みつきなどの反則も出していますね。
両者とも動きがとても良いです。中野は力がありますし、小倉はスピードとテクニックもあります。もちろん一つ一つの技の華麗さは先輩たちには及びませんが、プロテスト合格後の1年の動きとしてはとても優秀だと思います。見ていると小倉のほうが、スピードがあるゆえか、技の連携がよく試合巧者な感じがします。
途中、中野のドロップキックが小倉の腹にモロに入るシーンがあります。
キックがちょうど伸びる途中で腹に入ったので、吐きそうなほど痛いんじゃないかと思います。もうちょっと足が伸びた後に受けると良かったのですが。
ここで小倉がダウン、場外へエスケープしますが中野が場外戦を仕掛けて一気に有利に進めます。
志生野アナ「ドロップキック、お腹に入った、いまの痛かったでしょう」
三宅アナ「中野選手ですが、今日は絶対にドロップキック主体とした攻撃で、ということを言っていたんですよ」
三宅アナ「やっぱり自分の敵は小倉由美選手の地元であるというプレッシャー」
三宅アナ「そして新人王のときに負けたという悔しさが小倉選手を大きくしたはずだから、それが怖いと言っていました」
三宅アナ「目元のほうなんですが、ちょっとこれまでは厳しさが足りなかったんですね」
三宅アナ「長与選手に言われまして、化粧法を変えたせいもありまして、今日ちょっと厳しさを感じられます」
カウント18でようやくリングに戻る小倉。相当にドロップキックが効いたことが分かります。
小倉のケガを攻めた後、特にのボディアタック(ダンプとユウの技)。さらにリフティングから前方に落として、圧倒的に優位に立ちます。ローブに振ったところを小倉が隙を逃しませんでした。
回転エビ固めでスリーカウントが入りました。ダンプもそうですが、太っている選手はだいたい回転エビ固めで負けますね・・・。
この回転エビ固め、よくみると中野の腕を完全に足で押さえつけていますから、抜けにくかったのだと思います。
中野は泣きながら小倉の手を挙げてあげました。こういうところが中野の凄いところです。
ということで、全日本ジュニアはまずは小倉に取られてしまいました。
その後、中野は絶不調に入ります。
その経緯が、山崎照朝さんの女子プロレス物語に書いてありますので、引用してみます。
女子プロレス物語より--------------------------------------------
中野は59年3月の全日本ジュニア王座決定戦で小倉に敗れてから体調を崩した。その原因は女として美しくありたいという願望からの減量にあった。一日にレモン一個だけ。当然のことに試合ではフラフラ。そのうち減量の薬まで飲むようになって松永国松常務から厳しくたしなめられた。「そんなに痩せたいんだったらレスラーをやめろ!危なくて試合が組めんぞ」と。
練習で体を絞ったら文句はないが、食事もせず、薬まで使って一気に25kgも減量した中野をみるにみかねての国松常務の忠告だった。
「レスラーは体重が無差別でしょう。体を頑丈に鍛えておかないと、どんな事故につながるか分からないですからね」
全日本ジュニアで体の差からみても勝てる相手に負けたのは、減量のためスタミナが切れてしまったのが原因だった。
ところが国松常務の思いやりも、女心を突き崩すまでにはいかなかった。スリムになりたい中野は忠告を右から左に聞き流して減量旅だった。ついに国松常務は中野を試合から外す手段に出た。
入門2年目からは、すべて試合のファイトマネーで給料が決まる。試合が組まれないのは実質的な減俸である。
"休職"中の中野の旅での日課はリングの組み立てや雑用。くさった中野は宿舎の旅館に戻るとビールを買ってあおり酒。三禁を破ってついに東京に帰されたのである。
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女子プロレス物語より--------------------------------------------
「規則を守れないんだったら辞めてもいいんだよ」 フロント陣から進退を問われた中野は、沖縄を目前にした1984年6月1日の広島県可部町大会を最後に東京へ帰された。
東京には新人の一部を除いて誰もいない。本隊は4日後の下関市大会を終えると沖縄へ飛び立った。ガランとした寮での一人住まいは悔し涙に暮れる毎日。それは"反省房"へ入れられたような寂しさだった。
「悔しかったですよ。東京へ戻された時は辞めてもいいと思った」と中野。だが、日が経つにつれ、同期の仲間のことが気になりだした。「暖かい沖縄で、試合の合間に海で遊ぶ仲間のことを思うとシャクで仕方なかった」という。この悔しさを中野は「徹底的に練習して見直させてやる」とツッパリ娘の反抗心を燃え立たせた。
気にした減量も猛烈な練習量で立ち向かう気になった。「先生。いいトレーニングジムを知りませんか」 中野が私(山崎照朝)のところへそんな電話をかけてきたのは、帰京3日後だった。私は中野が過去を反省、やっと本気でプロレスをやる気になった、と感じた。そして私の勤務地にある大宮スポーツ会館にお願いして、米国式の最新式トレーニングマシンを使っての体力改造を行ったのである。
午前中は目黒の女子プロ道場で午前10時から3時間の練習、午後は大宮スポーツ会館で下田重心館長が作った筋力アップの練習メニューをこなした。時間は午後2時から2時間。初めは私も出向いて"監視"していたが、中野は時間を厳守、黙々とマシンに向かっていた。
「あの一件で私のやるべきことがハッキリしたんです。それまでは惰性でプロレスをやっていた・・」中野の猛トレは本隊が帰京した6月下旬まで約一か月間、一日も休まずに続けられた。
松永社長をはじめフロントは道場練習を担当した柳みゆきコーチから中野の姿勢を聞いて試合復帰を認めた。開幕間もない埼玉県川口市大会でノンタイトル戦ながら、ジュニア王者の小倉とシングルで対決させ、中野の成長を確かめたのである。
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