嘘を吐くにしても、全部を隠しきらないので違う名前で書いてあるには書いてあります。そしてこれを素直に読めば、卑弥呼の寿命が今の常識からは考えられない長寿で有った事が分かります。

なお天皇家縁って事で皇后ってつけたんだろうけど、違うだろうと私は思います。縁なら太陽石は破壊しません。殺されているから「以て死す」って魏志倭人伝には書かれています。戦争とかの何らかの責任を押し付けて殺された事を表す記述です。

 

神功皇后はだから、軍神八幡様なんです。教科書には「神功皇后は卑弥呼だった」と書かれていたのは日本書記の以下の記述が有るからでしょう。私個人のこじつけでも何でもない訳です。

 

ウィキペディアより引用

『日本書紀』は神功紀・応神紀にはいると飛躍的に外国の記述、特に朝鮮半島での出来事や倭国と朝鮮との関わりについての記述が増える。この時期の記述には朝鮮の史書である『三国史記』と対応する記述があり、また倭国から中国への遣使記録が中国各王朝の正史にあることから、『日本書紀』の年次と外国史書の年次を比較することができる。

巻9(神功紀)は39年条に「魏志倭人伝」に登場する倭の女王卑弥呼の遣使記事を載せ、神功皇后と卑弥呼を同一人物として描いている。この卑弥呼の遣使は魏の景初3年(239年)のことであるため、『日本書紀』は神功皇后39年を239年に設定していることがわかる。そして神功紀には同じく百済の王の崩御・即位記事があり、神功皇后55年に百済の肖古王(214年死亡)又は近肖古王(375年死亡)が死亡したこと、神功皇后56年に王子貴須 責稽王(286年即位)又は近仇首王(375年即位)が即位したこと、神功皇后64年に枕流王が即位したことなどが記されている。古事記では応神天皇の時代に照古王(肖古王又は近肖古王)が貢物を献上する話が出てくる。肖古王と近肖古王の名前は似ていて干支も201年と321年は同じものなので日本書紀の編纂者が誤って近肖古王のその後の系図を当ててしまった可能性も大いにある。『三国史記』や『東国通鑑』の近肖古王の記述に基づくならば近肖古王の死は西暦375年ということになりこれが神功皇后55年に対応する。ここから逆算した場合、神功皇后39年は359年となり『三国志』から導き出せる紀年とはちょうど120年の差分が存在する。百済の出来事との他の年次の対応も同様である。干支による年次表記では60年ごとに同一の干支の年が現れるため、『日本書紀』巻9は神功皇后を卑弥呼と同一人物とする過程で干支二運(120年)年代を繰り上げていることが知られ、さらにこの120年の紀年の歪みは神功紀の中で調整されることがないため、外国史書と巻9の間で出来事を対照させていくと神功皇后元年西暦201年であるのに対し、神功皇后69年(崩御時)は西暦389年という年代が得られる

~以上~

 

つまり、188年在位が有ったという事になりますが、多分ここからが、あのスピ本などの、古代の天皇は寿命が超人的に長かったという、要するにこの話の乗っ取りが行われたんだと思います。

これらの記述を見てもどうみても天皇の長寿何て特筆されてない訳で。

「本当に寿命が長かった人が居たらそれは卑弥呼だ」と言えるでしょう。だから都市伝説本で知られている飛鳥氏が卑弥呼は不老不死だったというような事を言っているんじゃないかと。実は私はこれ突飛な事だと思うかもしれませんが有るかもしれないと思います。なぜなら富士王朝の徐福の話を思い出してみて下さい。日本には長寿な人がいたからこそ不老不死の薬が有るんじないか?ってなっていませんか?富士は不死の山とも言われ、それはかぐや姫の伝説にも富士山の伝説として出てきます。かぐや姫の話はアマテラス伝説にオマージュされると専門家の人も言っている事を考え合わせると、アマテラスである者がどうみても長寿であったからという事に他ならないのではないでしょうか?

 

えっ(;゚Д゚)!かぐや姫って富士山の女神だったの?と思う方は以下をご覧下さい

 

降って、赫夜姫を富士山の祭神とする思想も、村山修験の古伝の「富士山縁起」にその起源をもつことを明らかにする。

中世から江戸初期、浅間神社の祭神(=富士山の神)は「赫夜姫」と考えられた。『竹取物語』のかぐや姫である。中世にさかのぼる『神道集』『富士山大縁起』『源氏物語提要』などに記述がみえ、広く知られていた説でした。

日本書記は天皇の家来が作ったものです。だから私は信用していません。その信頼できない根拠も次回に書いて行きます。だって現に祭神様の名前を変えて元々何だったか一般人に認識させないじゃないすかW?それでも清いファミリーなんですかねW本当正直で上品な家系ですね日本の多くの皆様がおっしゃるように。