前回は→その①

 

  前回の話から急に八咫鏡の話をします。結論から先に言うと、皇族のお宝。八咫鏡は一般に言われている形状ではなく

本物の卑弥呼の鏡の事でしょう。

つまり八咫鏡とは卑弥呼の鏡の事

卑弥呼の鏡はこちら

 当然ですが、何時もながら適当な理論でも何でもなく、きちんとした根拠に基づくものなので最後までお付き合い下さると幸いです

まず、八咫鏡はどんな物でどんな場所に有るものでしょうか?

どんな物かは一般人は誰も見た事は有りませんよね?だからこそそこに捏造する余地が生まれたのです。そしてそれは報道などにある通り伊勢神宮に有ります。

 

 伊勢神宮に聞けば全てが分かると思いますが、誰か電凸しますか(笑)?いやいきなりは聞きにくいですよね?ですが、そこまでしなくても伊勢神宮神主が八咫鏡が一体どんなものか?記録した書物が存在します。

その書物とは【神道五部書や類聚神祗本源等】です。

神道五部書とは:鎌倉末期の伊勢神道の経典の事

類聚神祗本源とは:神道五部書を基として儒仏の説をとり入れ、鎌倉末期頃から発展、以後の諸神道説の先駆をなした。度会神道。外宮神道。

教義こそ他の神道と対立が有ったもののの今回はそういう事ではなく、八咫鏡の内容が描かれている鎌倉時代の度会(わたらい)伊勢神宮神主が書いた物というところに着目して欲しいです。

 

それでは八咫鏡がどんなものか書かれている部分を以下に示します

【八咫鏡見聞録】

天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮内宮に奉安されている。

この「八咫鏡」の見分記録には「八頭花崎八葉形也」、「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」とある。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。

八頭はつまり・・・・これ鏡の真ん中を見てください。太陽の様な模様のトゲトゲがいくつ有ります?そう八つ。後述しますが。これは卑弥呼の鏡の形式なのです。

糸島には卑弥呼の鏡は結構沢山あります。

よく見かけるこちら・・・・・・

共通することは八つの角を持つというだけ。私はこれは実は本来の姿なのか疑惑を持つようになりました。

でね。これって見かけた人の手書きですよね?写真では無いわけです。矢野祐太氏という人物の手書きです。

だから誰が書いたのかが重要だと思いますが、私は大本教団かな?と直感で思いましたがそのままで笑いました→分かる人には分かる面白さ。

まず八咫鏡を見た人のリストアップをしていきますと。

明治天皇・矢野祐太氏・森有礼の三人です。明治天皇は誰でも知っているので解説しませんが、矢野氏、森さんについて解説していきます。

 

矢野祐太氏

矢野神政龍神会 秘密神示資料集成よりの解説

祐太郎は、艦載砲の電動装置開発などに功績ある海軍の技術将校であったが、大正5年、海軍兵学校時代の恩師、浅野正恭少将(浅野和三郎の兄)の紹介で大本本部を訪れて入信、大正7年には綾部に移住する。
 その後、大正15年の王仁三郎入蒙の舞台裏で活躍するが、まもなく王仁三郎と袂をわかち、大本開祖ナオの筆先に明示された立替え立直しの世界経綸論の発展 継承を模索することになる。昭和3年にはナオの三女で王仁三郎と対立する福島ヒサを中心とする大本の反主流派「大阪正道会」に接近する。ちなみにヒサも霊媒体質で、みずからの自動書記『日乃出神諭』をナオの筆先を継承するものとして位置づけていた。

~以上~

 

つまり、震災後の黄金の世とか~艮の金神が~なんていうのも、こういう人の傘下が裾野を広げて喧伝したと分かりますよね?

 

森有礼氏 イルミナティインデックスより参照

とは日本の初代文部大臣様なのですが・・・・グラバーとの関わりが有るようです。

1865年 坂本龍馬がグラバー商会から武器購入、更にグラバーの手引きで薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則など17名がイギリスに密航留学

グラバーは明治維新後も造幣機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めます。そして三菱財閥の相談役に収まり、更に麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築きました。つまり三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎(と弟の弥之助)とグラバーは密接な関係にあり、その岩崎がグラバーの助言により、麒麟麦酒を設立したのです。

今も日本経済の10~15%はフリーメイソン系、ユダヤ系が動かしていると考えられています。三菱のシンボルは定規でひいた三角やピラミッドをシンボルとするフリーメイソンを思い起こさせます。また三井もフリーメイソンとの関係が囁かれています。2014年12月、三井住友銀行はアメリカのシティバンク銀行(前述フリーメイソン系銀行)の個人向け事業を買収することで合意しました。三菱、三井といった財閥系銀行がフリーメイソンと深い関わりがあるのは間違いないでしょう。

政界においては日本の外交官として初めての海外派遣大使となった林董(初代駐英大使)が1903年、イギリスのエンパイア・ロッジにてフリーメイソンに入会しています。彼はフリーメイソンになった事で、様々な国で真の友達に巡り会えた、と関係者に語っていました。

明治12年には森有礼氏駐英公使を勤めている事実がありますね。

しかし第二次世界大戦に突入すると日本政府はフリーメイソンに対する圧力をかけ始め、日本におけるフリーメイソンの活動は困難なものとなります。ところが戦争が終わり、マッカーサーが来日すると一変して日本政府はフリーメイソンとの関係を深めるのです。

1945年8月17日、終戦直後に東久邇宮(ひがしくにみや)が内閣総理大臣に任命されました。日本の降伏宣言に受け入れられずにいる陸軍を武装解除し、終戦手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためです。東久邇宮は最初、迷っていましたが、昭和天皇に懇願されて意思を固めたと言われています。その戦後の最初の総理大臣、皇族出身の東久邇宮は1950年、フリーメイソンリーに入会しています。

~以上~

 

 しかし、森氏は暗殺されてしましました。表向きの理由は、伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた)という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが

※森氏はキリスト教に深い関心が有った事もその報道が本当と思われる可能性は高まっていたと思います

当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。

~以上~

 

西野さんはステッキどうこう小さな事を言いたかったのか?上の状況を考えると私は疑問に思いました。

暗殺の当日に所持していた斬奸状には、

「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。

確かに、彼の言う事はある意味合っている側面があると思います。だからって人を刺して良いとは決して思いませんが。

日本はその後、野坂参三とか岸とかの売国奴により成り立ってきたのもこういう流れが有ると誰がどう見ても思うことでしょうから

 

段々分かってきたことでしょうけど。書き写ししか出せないようであれば、例えば私が適当に書いたものでも八咫の鏡はこういう姿形をしていますと言える訳です。

 

 さて、話を戻します。この鏡の記述って実は明治以降になってばらまかれたものだろうと言う事はわかったと思います。

つまりこれは、前に言われていた八咫の鏡とは言えないと思います。だってそれ以前の記録では全く違うことが書かれていますから。

ニチユ同祖論、日本をキリスト教圏にしないといけないとすればユダヤ語も有ったという風にしたいと思いますね。

 

続きは→その③