前回は→その9
 
 盆踊りの仕草に笹を掻き分ける蓮如の姿が残される位、庶民に愛された彼ですが、簡単にそんな風になれた訳ではないんです。
吉崎御坊を建立するまでの彼の地道な努力の後を是非見て頂きたいです。
そして、その栄光の下には苦しさがあったというのに、そんな事を考えもせず、彼を嫉妬でいじめ抜いた人々の心の汚さも人間の真実としてあえて掲載します。
 
参考資料:吉崎蓮如博物館様等
●苦労その1
【貧しさの中に生まれ育ったのです】
永享3年(1431)蓮如は天台宗門跡寺院の青蓮院において得度(坊さんになった)。
当時の実家の本願寺は経済的に苦しい不遇の時代。
蓮如上人は父・存如上人について、宗学の研鑽を積まれ、また、近江・北陸での教化を手伝いました。東国の親鸞聖人の御旧跡へも歴訪されました。
※この時に東北への地盤がそこはかとなく出来ていたのでは?と思われます。お父さんの存如さんの息子さんね~なんて言い方おばちゃん達しそうですもんね。
 
●苦労その2
【独自のスタイルを考案した】
  坊さんになってから、16年後の長禄元年(1457)本願寺第八世をを世襲します。そして手始めに近江の教化そする。
この時に蓮如は、文書伝道スタイル等独自の布教活動を展開したのですが、その行動によって、浄土真宗が日本で広域に広まったきっかけとなったので偉大な実績だとされている訳です。
 
●苦労その3
【比叡山延暦寺のダーティー歴史】
あの有名な比叡山延暦寺ですが、過去にはそこの衆徒が本願寺破却(形が完全になくなるまで破壊される事)を嫉妬が原因で行い、親鸞聖人肖像画を持ち歩き近江の金森、堅田、大津を転々とされます。
※親鸞聖人の肖像画を持ち歩いている行動が(。>ㅅ<。)涙ぐましい、親鸞をとても尊敬していたのですね
 
そんな経緯がありながらも・・・・・

文明3年(1471)ようやく越前吉崎に坊舎(吉崎御坊)を建立されるに至りました。
ここまで一口に言っても、14年もかかってます。これが苦労言わずしてなんというのか・・・?
 
しかし、この吉崎御坊ですが、どうやってこの地に決めたかのエピソードが大変興味を引かれました。空海は天に向かって数珠を投げて落ちたのが現在の高野山で、そこに決めたらしいです。
果たして蓮如は?
 
文章蓮如博物館より参照
京から吉崎に向かった蓮如上人の一行は、道に迷われました。 そ
の時一匹の白鹿が現れて吉崎の御山へ導きました。
画像:世界不思議ニュースエグニムから引用。
 
そこには白髪の老人が座っていて「ここに御坊をお建てなさい」と告げて消えました。鹿島明神の化身でした。
馬堀法眼喜孝画伯の寿老人 より引用
吉崎御坊にはまたたく間に多くの参詣者がつめかけるようになり、その周囲には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒をつらねて、吉崎は一大仏教都市になりました。
   
   しかし、出る杭は打たれるどころか・・・ひど過ぎる(;>_<;)事件が起きてしまいます
別派の門徒のとある老婆の企み
別の宗派の門徒の老婆が蓮如を非常に嫌っていました。
文明6(1474)年3月28日の事です。
日の暮れるのを待って松明を頭に縛り付け
画像:八墓村より
入江を泳いで船着き場に向かった。船着き場から曲がりくねった七曲がり崖路を上り詰め、誰もいないのを見て火をつけた、老婆は急いで坂道を下り、およいで逃げた、吉崎御坊の方を見ると火の手が上がっている、老婆は手を打って喜んだ。
【草木も生えぬ程悪事の毒が染み込んだ小道かな?】
以来悪行をした老婆の通った七曲がり小道には草木がはえなかったたという。
【御坊の坊さんだけではなく村人が身を呈して助けているところが素敵です】
燃え広がった日は村人達ともに本尊をはじめ大切な品々を運び出した。
親鸞聖人御親筆顕の【教行信証】のうちの一冊を置き忘れたことに気が付いた。
弟子の本光坊了顕が
「その聖教を私が命に代えても取り出してまいります!」
と人々の止めるのを振り切って日の中へ飛び込んだ。ようやく書院にたどり着いて机の上の聖経をみつけたが、あたりは火の海で有った。
【命より教えが大切?気合の入った弟子の行動とは?】
燃やしてなるものかと持っていた短刀で腹を一文字に切り裂き、おなかに治めうつぶせになって絶命。
翌朝火事の後始末をしていた、黒焦げになった死体を見つけて蓮如にしらせた。抱き起してみると腹の中から血染めのが現れた。彼は仏法に命を捧げた偲び、居並ぶ人々とともに合掌し、念仏を唱えられた。
【火事でも守られた名号】
この火事で不思議だったのは、周りはすべて焼けたのに御名号の文字だけは一文字も焼けずに残ったという「焼け残りの御名号」が本願寺に今でも伝わっています。
※名号(みょうごう)とは仏や菩薩の名。特に阿弥陀仏の名や「南無阿弥陀仏」の六字の事。
 
【蓮如に味方するカニちゃん伝説】
カニたちが無数に集まってきて泡吹いてその泡で火を消し止めた、今も生息する吉崎のカニはその時の火で鋏が赤く染まて居るという。

  しかしながら、吉崎御坊に人々が集まれば集まるほど、周囲の権力者や他宗との間に軋轢が生まれます。

そういった状況をおさえるため、蓮如上人は、文明7年(1475)吉崎を後にされました。
※粘らないで立ち去ってしまったか(´;ω;`)余程苦しかったんじゃないのかなぁ・・・
心が壊れそうだったのではないのかなと感じます。

 
立ち去った後は彼はどこに行ってしまうのでしょうか・・・・・?
 
その前に「岩と蓮如の秘密」に迫りたいと思います。
彼の行く先々では「とある現象が起きているんです」
彼の伝説が世に知られないのはあまりにも勿体なすぎるので、その興味深い部分を掘り下げていきます。
次回も是非・・・絶対必ず面白い(^_-)-☆からよろしくね。
 
続きは→その11