前回は→その4

 

 まず一般の人は浄土真宗=親鸞しか知らない人が多いと思うので、一体蓮如がどういうポジションの人か?という解説から入りたいと思います。

 

【浄土真宗御三家とは?】

一代目親鸞

3代目覚如上人

8代目蓮如上人

浄土真宗の中で、この三人の教えが一番正確で学ぶべきものという一番尊敬されている師です。

つまり浄土真宗の僧侶や檀家さん等は彼等の教えを一番に踏襲しようと心掛けている事でしょう。

 

教え導いた坊さん、そして書き留めた人は他にも居るのかもしれません・・・・

しかしどうして彼らがそれだけ崇められているかと言いますと・・・・

【教えをまとめ上げる文才の持ち主】

●三代目の覚如上人は親鸞聖人の曽孫なので親鸞聖人から直接教えを受けており、正確に受け継いているであろうという部分と、、名文家として知られているんです。

つまり、文章を書くのが非常に上手な人であったという事。なので読解力もあるでしょうから、親鸞の教えをきちんと正確にまとめあげる事が出来たのだろうと思います。

主な著書に『改邪鈔』『口伝鈔』『執持鈔』『御伝鈔』などがあります。

 

【行動派でパワー全開の人】

●8代目蓮如上人は、親鸞聖人から約200年後に登場した人物です。ですので相当後ですよね、親鸞が亡くなってから・・・・

しかし、親鸞聖人の教えを、正確に、多くの人に伝えた英雄として、蓮如上人の右に出る方者はいないと今でも浄土真宗の方々には尊敬され大切に思われいているのです。

 

蓮如は、実は行動派として知られていますが、実は仏教の大学者でもあった知的な人材です。しかし著書が少ない理由は・・・・

もの凄い移動量だった為と言われています。ウンチクを言うより行動を選んだのではないでしょうか?

 

彼の凄さは、わずか一代で、3頭の俊馬を乗り継ぎ、北陸、関東、東北と、精力的に布教を展開したのです。

今の時代と違うので非常に大変だった事でしょう。

上人のみ足にはワラジの緒が食い込み、晩年、あとがクッキリ残っていたと伝えられています。

こんなに歩き回った彼なので、各地に色々な伝説が残ったんでしょう。

彼が愛されていた証拠をたかちほは蓮如岩に見つけましたが、実は他にも有るんです。

興味深いのでその旅行記をおってみましょうヽ(*´∀`)ノ

 

その前に、彼自身の簡単なプロフィール紹介をしておきますね。

 

【幼名・布袋丸(ほていまる)】

法名が蓮如(尊称・蓮如上人)です

応永22年2月25日、京都の大谷本願寺にてご生誕し、明応8年3月25日、京都の山科本願寺にて死去:享年85歳

父君は本願寺第七世の存如(ぞんにょ)上人。

母君は不明(存如の母に給仕していた女性と伝えられている)

※応永とか明応とか分からない方へ→室町・南北時代の元号の一つの事ですので、大体その周辺の時代をイメージしておくとよいでしょう。

【実は驚きの子沢山!】

妻とは幾度も死別を重ねたため、生涯に渡って5人!

子供は

男子13人

女子14人

計27子!!!!

 

長禄元年6月17日・43歳のとき、本願寺第八代法主(留守職)就任

著作に「御文章」「正信偈大意」がある

 

【少年時代は苦労人】

幼くして母と離別してしまった彼。

母が父の正妻ではないため、父の長男であるがゆえに継母には辛くあたられます。

※後釜の女性を正式に妻として迎えなかった為に、この女性がいくら長男を生んでも後継には出来ないですよね?そんな悔しさとか不安から来たいじめじゃないかなと推察されますね

 

【しかし、人間味が豊かな人に育った様子です】

寂しい少年期を過ごした彼ですが。

行く先々で色々な人を虜にして行きます。

そんな彼の人柄は実は蓮如岩の伝説もそうなのですが、残されたものからも色々わかります。

そんな魅力ある彼のエピソードについて次回から掘り下げて行きたいです。

話はちょっとそれますが、今回の記事を書く前に御縁が有った事に気がつきました。

実は前にとある場所に出かけて居ましたが、親鸞関連で不思議な体験をしていたのです。

それもプチエピソードとしてご紹介したいなと思いました。

 

続きは→その6